成蹊実業専門学校の設置
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「成蹊中学校・高等学校」の記事における「成蹊実業専門学校の設置」の解説
1916年9月1日、岩崎によって「財団法人成蹊学園設立許可願」が文部大臣宛に提出され認可を得た。私立成蹊実業専門学校は1916年(大正5)年10月、財団法人成蹊学園理事の中村春二によって設立申請され、12月に文部大臣高田早苗により認可された。日清戦争・日露戦争を経て日本は産業革命を達成し国内経済が飛躍的に発展する中、就学率が向上し高等教育である専門学校への進学希望者が増加していた。専門学校令、改正し実業学校令が公布され私立では3番目に成蹊実業専門学校が設立された。学園理事には、三菱の三好重道(初代検事総長三好退蔵の子、三菱製鐵社長・三菱造船取締役)と山室宗文(陸軍中将山室宗武の兄、三菱銀行常務・三菱信託・三菱地所会長)が名を連ねていたが、岩崎の「近頃は安心して金庫の鍵を預けられる人材が少なくなった」という発言に対し、三好と山室は「成蹊学園において真に信頼しうる人材を養成してみてはどうか」と提案した。この提案によって成蹊実業専門学校が設立されるに至った、と今村繁三が証言する。すなわち成蹊実業専門学校設立は実業界、特に三菱における中堅的人材の育成が求められて企画されたものであった。三菱が社員養成を目的とする、1878年(明治11年)開設の三菱商業学校(慶應義塾の分校となる)のように、三菱の銘売った学校を創らずに、中村の成蹊に教育を託した根底には、岩崎と中村の長年の信頼に基づく関係があった。岩崎は教育者としての中村春二に絶大な信頼を有し、惜しみない支援をしたいという思いがあった。中村もまた岩崎の思いを受け、実務学校において着実に教育成果をあげて社会から高い評価を得ると共に、社会状況を受けて岩崎の求める三菱や実業界の人材教育の実践に向かったといえよう。実業専門学校設立を提案した三好重道と山室宗文もまた中村の成蹊教育に共鳴し、成蹊小学校に師弟を通わせていた保護者であった[信頼性要検証]。山室は1934年にも学園理事となり、1946年から成蹊学園理事長(第2代)を務め成蹊学園の運営に深く関わっていく人物である。 教務主任には第一高等学校・東京帝国大学時代の同級生であった中島万次郎(哲学者、天台宗大学講師)の他、生徒監には渡辺八郎(秩父宮御用掛、学習院学生監)が着任した。民法・経済学は末弘厳太郎(東京大学名誉教授)、森戸辰男(第63・64代文部大臣、広島大学学長)、石坂音四郎(京都帝国大学教授)を通じて鳩山秀夫(衆議院議員、第6代衆議院議長の鳩山和夫次男)が担当した。鳩山は成蹊教育に期待して一人息子を成蹊小学校に入学させた保護者でもあった。商業科目講師は三菱の選任によった。三菱は1912年から毎年社内で定期的に簿記講習会を開催した。1916年からは早稲田大学商科教授の吉田良三(会計学の権威、のちに一橋大学名誉教授)が講師を担当し、翌年に開校した成蹊実業専門学校の講師にも吉田を起用させている。 実務学校創立趣旨に準じて成蹊実業専門学校においても特待生制度を設けた。この奨学金を積極的に支出した後援者は、久原房之助(鉱山王、第32代逓信大臣、立憲政友会総裁)や川崎財閥総帥二代目川崎八右衛門、平生釟三郎(甲南学園創設者)、内田信也(鉄道大臣・農商務大臣)などの大富豪らであった。志願者は毎年5倍を超える人気であったが、1920年になると、第一次世界大戦後の反動不況により、奨学金を支援していた久原房之助や内田信也ら実業家の経営状況が悪化したため特待生募集は中止された。代わりに賃費生を若干名募集した。 第1回卒業生の17名の就職先内訳は、三菱合資会社6名、川崎銀行4名、久原財閥関係2名、そのほかは横浜正金銀行・台湾銀行・三井銀行などであった。1919年から1923年までの本科生卒業後の進路としては、三菱銀行13名で最も多く、三菱製鐵や三菱商事、三菱製紙、三菱造船などやはり三菱グループの就職が多かった。
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