成蹊高等女学校の設置とは? わかりやすく解説

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成蹊高等女学校の設置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 02:19 UTC 版)

成蹊中学校・高等学校」の記事における「成蹊高等女学校の設置」の解説

1917年大正6年)に目白創設され成蹊女学校は、高等女学校令に基づく学校へと改組され、1921年大正10年4月校名を「成蹊高等女学校」に変更した修業年限本科4年専攻科3年)で、定員は各学年本科25名(専攻科20名)、授業料年額84であった同年第1期入学者20名で、うち成蹊小学校からの内部進学者は15名である。1919年大正8年9月奥田正造が女学校主事就任翌年中村春二の後を受けて高等女学校となった中村厳格な賢母教育実現するため女子に対して男子よりも厳し指導必要性強調し炎天下での草取り寒中体操などで心身鍛えさせていた。卒業後の進路の中では専攻科への進学最多であったが、1928年卒業者東京女子大学聖心女子学院東京家政学院進学する者もあった。 1924年大正13年)、三菱本社理事会開催され成蹊高等女学校学園からの分離議題挙がった今村繁三頭取助力回避された。しかしながら第一次世界大戦後不況長期化する中、7年制高等学校開校間近に控え学園財政状況決し余裕はなかった。廃校後特殊な女子教育機関として現校長奥田経営続ける案や、新財団法人設立のため安田財閥近藤滋弥実業家男爵)と交渉努力重ねるものの話はまとまらなかった。1935年財団法人東京成蹊高等女学校設立申請が行われ許可下り10年に及ぶ分離独立問題上記の形で決着した理事長今村繁三理事には荻野仲三郎歴史学者)、奥田正造校長監事土肥章司(東京慈恵会医科大学教授)が就任した1954年成蹊学園合併し1956年廃校となった

※この「成蹊高等女学校の設置」の解説は、「成蹊中学校・高等学校」の解説の一部です。
「成蹊高等女学校の設置」を含む「成蹊中学校・高等学校」の記事については、「成蹊中学校・高等学校」の概要を参照ください。

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