成蹊高等女学校の設置
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「成蹊中学校・高等学校」の記事における「成蹊高等女学校の設置」の解説
1917年(大正6年)に目白に創設された成蹊女学校は、高等女学校令に基づく学校へと改組され、1921年(大正10年)4月校名を「成蹊高等女学校」に変更した。修業年限は本科4年(専攻科3年)で、定員は各学年本科25名(専攻科20名)、授業料は年額84円であった。同年の第1期入学者は20名で、うち成蹊小学校からの内部進学者は15名である。1919年(大正8年)9月に奥田正造が女学校主事に就任、翌年中村春二の後を受けて高等女学校長となった。中村は厳格な賢母教育を実現するため女子に対しては男子よりも厳しい指導の必要性を強調し、炎天下での草取りや寒中の体操などで心身を鍛えさせていた。卒業後の進路の中では専攻科への進学が最多であったが、1928年度卒業者は東京女子大学、聖心女子学院、東京家政学院に進学する者もあった。 1924年(大正13年)、三菱本社で理事会が開催され成蹊高等女学校の学園からの分離が議題に挙がったが今村繁三頭取の助力で回避された。しかしながら第一次世界大戦後の不況が長期化する中、7年制高等学校開校を間近に控える学園の財政状況に決して余裕はなかった。廃校後、特殊な女子教育機関として現校長奥田が経営を続ける案や、新財団法人設立のため安田財閥や近藤滋弥(実業家、男爵)と交渉努力を重ねるものの話はまとまらなかった。1935年に財団法人東京成蹊高等女学校設立の申請が行われ許可が下り、10年に及ぶ分離独立問題は上記の形で決着した。理事長は今村繁三、理事には荻野仲三郎(歴史学者)、奥田正造校長、監事に土肥章司(東京慈恵会医科大学教授)が就任した。1954年に成蹊学園へ合併し、1956年に廃校となった
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