おう【応〔應〕】
應
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/27 06:51 UTC 版)
西周早期 - 不詳
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国姓 | 姫姓 |
爵位 | 侯 |
国都 | 應城(河南省平頂山市新華区滍陽鎮) |
分封者 | 不詳 |
始祖 | 應侯 |
滅亡原因 | 楚により滅亡 |
史書の記載 | 『春秋左氏伝』 |
周朝諸侯国一覧 |
應(おう)は、先秦時代の小国。
歴史
應は殷代に建国された。甲骨文の卜辞の中に「應侯朝商」、商王「歩于應」の記載がある。『水経注』の注引『竹書紀年』には「殷時已有應国」とある。当時の應は山西省朔州市応県一帯に存在した可能性がある。
周朝の武王克殷以後に、應は滅ぼされ、新しい應が建国された。この應は姫姓で、始封の君は周の武王の子。封地は現在の河南省平頂山市新華区滍陽鎮應城。根拠に平頂山に應の墓地があることが考古学的に証明されている。應はもともと監国で、殷の遺民を監視していた。
洛陽平原につながる潁河渓谷の出口の近く、南陽盆地の入口のすぐ近くにあり、長江中部への道路を管理していた[1]。
戦国時代、秦の相国范雎の封地となった(なので、應侯と呼ばれる)。
歴代君主
- 應侯、周の武王の子。
- 應侯見工、《應侯見工簋》に見える。名は見工。西周中期前段期の人[2]。
- 應釐公、《應侯爯盨》に見える。西周中期前段期の人。子に應侯爯がいる[3]。
- 應侯爯、《應侯爯盨》に見える。名は爯。西周中期前段期の人。父は應釐公[2]。
- 應侯、《應侯簋》に見える。西周中期の人。夫人は生杙姜[2]。
- 應侯、《應侯鼎》等に見える。西周晩期の人。夫人は應姚[2]。
- 應侯、《應侯簋》に見える。西周晩期の人。母は姫原母[2]。
脚注
参考文献
- 任偉《西周封国考疑》
- Li, Feng (2006). Landscape and Power in Early China: The Crisis and Fall of the Western Zhou 1045-771 BC. Cambridge: Cambridge University Press. ISBN 978-0-521-85272-2
応(おう)
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共産党による革命の火を消さぬため、拳志郎に懸かった10万元を得ることを望む。そのために戦った者達を見届けた。
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應
応
應
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「應」の例文・使い方・用例・文例
- 福沢諭吉です。彼は明治時代の学者、教育者、そして著作家です。また、慶應義塾大学の創設者としても知られています。
- 彼は,1927年に慶(けい)應(おう)大学の宮(みや)武(たけ)三郎投手が勝利して以来,80年ぶりに開幕戦に勝利した1年生投手となった。
- 同委員会は,服部栄養専門学校の理事長兼校長である服部幸(ゆき)應(お)氏を委員長とし,郷土料理99品のリストを作成した。
- 慶(けい)應(おう)義(ぎ)塾(じゅく)大学法学部卒業。
- 慶(けい)應(おう)義(ぎ)塾(じゅく)大学の学生時代,初めてバングラデシュを訪れる。
- 慶(けい)應(おう)義(ぎ)塾(じゅく)大学卒業後,都内の人材派遣会社に就職。
- 我(が)武(む)者(しゃ)羅(ら)應(おう)援(えん)團(だん)
- 私は我(が)武(む)者(しゃ)羅(ら)應(おう)援(えん)團(だん)団長の武(む)藤(とう)貴(たか)宏(ひろ)です。
- 慶(けい)應(おう)義(ぎ)塾(じゅく)大学大学院メディアデザイン研究科の稲(いな)見(み)昌(まさ)彦(ひこ)教授のおかげで,これはもはやSFではない。
- 2007年慶(けい)應(おう)義(ぎ)塾(じゅく)大学を卒業後,新(しん)日(にっ)鉄(てつ)住(すみ)金(きん)株式会社に入社。
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