殷 (西周)
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紀元前1027年 - 紀元前1024年 | |
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国姓 | 子姓 |
爵位 | 公? |
国都 | 殷都 |
分封者 | 周の武王 |
始祖 | 武庚 |
滅亡原因 | 周公により滅亡 |
史書の記載 | 『史記』 |
周朝諸侯国一覧 |
殷(いん)は、西周の初期の諸侯国。国君は子姓。前王朝の殷の帝辛の子の武庚が封じられた。国都は殷の首都の殷墟。管轄区域は河南省北部、河北省南部と山西省南東部の一帯。
建国
周の武王は殷を滅ぼすと、殷の遺民を安撫するために、帝辛の子の武庚を殷に封じた。ここは旧殷都(殷墟)であった。その後、武王は殷の南西の霍・管・蔡を殷の監視のために置いた。これが「三監」である[注 1]。
滅亡
武王の死後、子の太子誦が王位を継いだ(成王)。魯の周公旦が入京して輔政した。しかしこれを「三監」らは不満に思い[注 2]、武庚は「三監」や東夷と各地で反乱を起こした。これが「三監の乱」である。
三監の乱の平定後、周公は武庚を殺した。殷を二分し、西部は衛として弟の康叔封を封じ、東部は宋として微子啓[注 3]を封じて、殷の勢力を弱体化させた。
歴代君主
殷の君主は1人のみ。
脚注
注釈
出典
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