思想と主要著作
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康有為思想の特徴はおおざっぱに整理すると二つある。それは儒教ではマイノリティにあたる今文公羊学に基礎を置いていたこと、そして西欧思想の影響がごく初期の著作からもうかがえる点である。この両者が化学反応を起こしながら、康有為の思想を作っていった。 まず前者についてであるが、はじめは師朱次琦から漢学・宋学を並び学んでいたが、1890年始めに王闓運の弟子廖平の著書『今古学攷』や『知聖篇』に接して以来、康有為は今文公羊学の立場をとるようなる。儒教のテクストにはそもそも孔子の旧宅の壁中より発見された古文(秦以前の文字を使用)と漢代隷書を用いた今文のものと二種類あるが、康有為は古文を前漢末の学者劉歆の偽作であるとして退け、今文こそ孔子の真意を伝えたものだとして称揚した。そして劉歆偽作説を唱えた『新学偽経考』(1891年)、孔子の真意を「微言大義」によって正しく伝えたのは『春秋公羊伝』であるとした『春秋董氏学』(1897年)、孔子は行うべき政治改革を古に託して著述したとする『孔子改制考』(1898年)を順次著していった。これらの著書により、周公旦の政治制度を正しく伝える「述者」としての伝統的孔子像を払拭し、政治改革を行う「作者」(制度をつくる者)という全く新しいイメージを康有為は孔子に与えた。新しい孔子イメージを前面に押し出すことで、「旧法に泥(なず)む」人々を「異端」とし、自らを正統化する根拠としたのである。 次に西欧思想を積極的に摂取した側面であるが、康有為初期の著作『実理公法全書』には「人類平等は幾何公理なり」といった語句が見え、彼が西欧の思想に対して、早くから寛容であったことがうかがえる。康有為は当時プロテスタント宣教師らが発行する雑誌や著作を買い漁り、儒教経典にはない新知識・新思考を獲得していった。そうして得た知識は経学と照らし合わされ、一致点を見いだすことにより、経学から正当性を付与された。これは一見すると経学が西欧思想に優先する地位を与えられているようであるが、経学が西欧思想正当化の単なる装置として機能しているに過ぎないとも見えるために、康有為の学問については厳しい批判が寄せられた。しかし批判によってその姿勢を改めることはなく、日清戦争以後は、より簡単に知識をえる手段として明治日本の著作・翻訳にも目配りし、それを政治改革に積極的に取り入れていく。その結果編まれたのが『日本変政考』や『日本書目志』である。前者は明治維新の経過を追いながら、時折康有為自身の考察内容を差し挟んだもので立憲君主制こそ今こそ清朝が行うべき改革であると示唆した書であり、後者は『変政考』を編む際に収集した日本の書物について書名・著者・定価を詳しく並べたものである。これら二書は、各国の政治改革状況を知りたいと考えていた光緒帝に献呈され、帝の改革への意志を固めさせる役割を果たすこととなった。 上記の二つの思想的特徴からわかるのは、康有為という人物が常に儒教テクストという枠の中で思考しようとする『礼教』的近世中国知識人の側面と、儒教的価値観から踏み出そうとした近代の知識人の側面をどちらともを備えていた点である。彼は欧米の知識・思想に大いに魅了されながらも、それを咀嚼するためには孔子や『公羊伝』のイメージを書き換えた上でなければならなかったし(『新学偽経考』や孔子教など)、「平等」や「民権」ということばは、儒教テクストに強引に根拠を探してからでなければ使用できなかった(『孔子改制考』など)。しかしこれは一見迂遠なようであるけれども、異文化を受容する上で避けては通れない道であった。康有為自身は生涯満足に外国語を身につけられなかったが、西欧知識を儒教テクストに付会し紹介したという点で文化翻訳者といえる位置にいたといえる。
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