思想と事績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/13 08:45 UTC 版)
「チョカン・ワリハーノフ」の記事における「思想と事績」の解説
ワリハーノフは病のためにカザフの草原地帯に帰郷した後、草原地帯の後進性、ロシアから派遣された役人と封建領主の苛政を嘆いた。彼はカザフ文化をイスラームの影響から守り、ロシア・西欧の文明を取り入れることでカザフの文明化を試みた。さらに改革にあたって一般民衆の立場に立たず、特権階級であるイスラームの聖職者の意見を容れるだけに留まる、ロシア政府の欺瞞的な姿勢はワリハーノフの批判の対象となったワリハーノフはカザフ文化の独自性を認めながらも旧来の因習を批判し、定住化とロシア・ヨーロッパ文明の受容によるカザフの進歩を望んだ。 ワリハーノフの主な学問的業績としては、カザフスタン・天山山脈西部・タリム盆地西部の踏査行、『マナス』の記録、タリム盆地の住民生活についての叙述と政治史研究などが挙げられる。 ワリハーノフが著した旅行記には、1856年の『イッシク・クルへの旅行の日記』、同1856年の『中華帝国の西辺境とクルジャ』、1858年のカシュガルの旅行記『カシュガルへの旅行とアラタウ管区への帰還』がある。 1961年から1972年にかけて、カザフ・ソビエト社会主義共和国のアルマ・アタ(アルマトイ)で全5巻にわたる彼の著作集が刊行された。カザフ・ソビエト社会主義共和国においてはワリハーノフは学術上の事績以外に、キルギスの権利を守るために活動した知識人としても評価されていた。彼の業績を称えて、アルマトイの歴史・考古学・民族学研究所にはワリハーノフの名前が冠されている。
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