思想と宗教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 09:50 UTC 版)
多くのヒッピーたちはカトリックやプロテスタントなどの主流宗教を拒絶し、彼らがより個人的なスピリチュアルな体験ができると考えた仏教、ヒンズー教、瞑想などを擁護した。それらの宗教は規則にしばられていないと見なされ、キリストの古い信仰と関連する可能性が低かった。 英国のオカルティスト、悪魔崇拝者のアレイスター・クロウリーは、およそ10年もの間ロックミュージシャンだけでなく、新しいニュー・オルタナ・スピリチュアル運動に影響を与えつづけるアイコンとなった。ビートルズは1967年のアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のカバースリーブの登場人物の一人として彼を選んだ。1970年代のハードロック・バンド、レッドツェッペリンもクローリーに魅了され、彼の衣服、原稿、儀式物の一部を所有した。 また、ロックバンド、ドアーズもコンピレーション・アルバム『13』の裏表紙でジム・モリスンや他のドアーズのメンバーがクローリーの肖像とともにポーズをとり、ティモシー・リアリーもそのインスピレーションを認めている。ハーバード大学教授の心理学者ティモシー・リアリーは、オカルティストのアリスター・クローリーをヒッピーへの影響として引用している。 1960年代には、ヒンドゥー教とヨガに対する西洋の関心がピークを迎え、西洋人が説く多くのネオ・ヒンズー教の学校が生まれた。 1991年、宗教学者ティモシー・ミラー(英語版)はその著書「ヒッピーとアメリカの価値(Hippies and American Values)」の中で、ヒッピーの特徴を主流な宗教機関の限界を越えようとする「宗教的運動」と表現していた。 「多くの異なる宗教と同じように、ヒッピーは主流文化の宗教機関に非常に敵対的であり、支配的な宗教がし損なった務めを行うための新しいよりよい方法を見つけようとした」とした。 「ヒッピーの旅(The Hippie Trip)」の著者ルイス・ヤブロンスキー(ドイツ語版)は、ヒッピーたちの間でもっとも尊敬されていたのは、その時代にあらわれた霊的指導者、いわゆる 「大司祭」だったと指摘する。それはサンフランシスコ州立大学のスティーヴン・ガスキン(英語版)教授だった。 1966年にはじまったガスキンの「マンデーナイト・クラス」は最終的に講義ホールにまで膨らみ、キリスト教、仏教、ヒンズー教の教えから導きだされたスピリチャルな価値についてオープンな議論をし、1500人ものヒッピーの信者を集めた。 1970年にガスキンは「ザ・ファーム(The Farm)」というテネシー州コミュニティを設立し、今でも彼は彼の宗教を「ヒッピー(Hippie)」と記入している。 ティモシー・リアリーはアメリカのハーバード大学の教授、心理学者、作家であり、サイケデリックな薬物の擁護者として知られている。 リアリーは1966年9月19日、ドラッグのLSDを「神聖なる聖餐」として宣言する宗教団体「スピリチュアル・ディスカバリー同盟(英語版)」(略称LSD)」を設立した。信仰の自由に基づいてLSDや他のドラッグを瞑想等にも用いるための法的地位を維持しようとしたが失敗した。ちなみに、このようなサイケデリック体験は、ビートルズのアルバム『リボルバー』に収録の「トゥモロー・ネバー・ノウズ」にインスピレーションを与えている。彼は1967年に「あなた自身の宗教をはじめよう」というパンフレットを発行し、1月14日、サンフランシスコで3万人のヒッピーが集まった「ヒューマン・ビー・イン」に招待され、そこで有名な「Turn on, tune in, drop out」というフレーズを唱えた。 ティモシー・リアリー ティモシー・リアリーは60年代の若者に強い影響力を持っていた。カリフォルニア州知事選挙に立候補を表明したこともある。ジョン・レノンが作曲したビートルズの曲「カム・トゥゲザー」は、リアリーの選挙キャンペーンのために書かれた曲だが、結局、リアリーは選挙に出馬することができなかった。 ラルフ・ネーダー ラルフ・ネーダーは環境問題や消費者の権利保護運動のリーダーで思想家だった。ヒッピー運動が終わった後も活動を続け、独立系や緑の党の候補として、複数回大統領選挙に出馬している。なお、60年代の若者対象の世論調査で、ティモシー・リアリーやラルフ・ネーダーはベスト10に入ったが、マルクーゼやローザックがベスト10に入ることはなかった。
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