広島瓦斯電軌時代
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広島電気軌道は、1917年(大正6年)8月に広島瓦斯(現在の広島ガス)と合併、資本金600万円で広島瓦斯電軌になった。これは、夏季に売り上げの多い電車部門と、冬季に売り上げの多いガス部門を統合させることにより、経営体質を安定させるためである。 市内線は、1917年(大正6年)の11月に現在の横川線の一部となる左官町 - 三篠間が開通。1919年(大正8年)5月に御幸橋の軌道専用橋が完成し、宇品線が1本につながった。1921年(大正10年)に大阪市電より後にB形になる車両(2代目101-110号)を10両購入。それに伴い、元々の101-150号車を1-50号に改番した。1925年(大正14年)4月に2013年現在広電最古参となる後に150形(E形)になる車両(151-160号)を導入。同年6月頃より、宮島線の車両に倣う形で、車体左下部に0形には「A」、100形(2代)には「B」、150形には「E」の文字が付記された。1927年(昭和2年)に大阪市電よりB形(2代目100形)を20両追加購入。1930年(昭和5年)にG形(後の初代200形)を10両導入。1935年(昭和10年)12月に御幸橋東詰 - 宇品間が複線になった新線に移動した。1933年から1934年頃にかけてポールが2本から1本に変更された。1937年(昭和12年)に千田車庫で火災が発生。被害車両の復旧で100形(初代)11両が450形になった。1938年(昭和13年)に大阪市電より市内線初のボギー車になる300形を5両、京王電気軌道(現在の京王電鉄)より23形を10両購入し500形(初代)とした。またB形を全車更新し400形になった。 これに前後して、1920年(大正9年)都市計画法(旧法)施行に伴い広島県による市中心部の道路整備計画が建てられ昭和期に入り電車道の幅員を13間半(約24.5m)まで拡幅し橋梁も道路・軌道併用橋として架け替えられ、広電も軌道の複線化を行うなど随時更新していった。なおこれらの財源は県債だけではなく、一部は広電からの出資で賄われている。 宮島線は、1919年(大正8年)3月7日に広島軽便鉄道が、己斐 - 草津間の免許を取得。同年4月18日に、広島瓦斯電軌に免許は譲渡された。同年6月に鉄道院に対し、敷設権の継承、草津町-大野村間の免許申請、動力を蒸気機関から電気への変更申請を行い、同年9月25日に許可され同年11月16日に宮島線の建設が始まった。1922年(大正11年)8月に宮島線の第一期工事区間である己斐町 - 草津町間が開通。それに併せて同年6月にC形(後の1000形)を導入した。1924年(大正13年)4月に第二期工事区間である草津町 - 廿日市町間が延長。それに併せて1923年(大正12年)12月にD形(後の1010形)を導入した。1925年(大正14年)7月に廿日市町 - 地御前間が開通。それに併せて同月F形(後の1020形)を導入。それと同時に宮島に向かう連絡船が開業した。1926年(大正15年)7月に地御前 - 新宮島間が開通し、連絡船に接続した。1931年(昭和6年)2月に新宮島 - 電車宮島(現在の広電宮島口)間が開業し、宮島線が全通した。同日連絡船事業は廃止。それに併せて1930年(昭和5年)にはH形(後の1030形)を導入した。1937年(昭和12年)の火災では、C形・D形1両ずつ、計2両が被災。足回りなどを流用し、1941年(昭和16年)に半鋼製の1040形として復旧した。 1939年(昭和14年)にアルファベットだった形式名を、車番と同様の数字による形式名に変更した。
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