広島監督時代
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「集団は確固たる指導方針を持った強烈なリーダーによって変わる」ということを身を持って示し「球界の革命児」と呼ばれた。前年まで3年連続最下位だったチームの帽子の色を、それまでの紺色から燃える闘志を表す赤色に変えた。広島の代名詞でもある「赤ヘル」の生みの親である。なお、当初はアンダーシャツやストッキングやユニフォームのロゴも赤に変更する予定であったが、予算の関係で見送られそれが実現するのは1977年からとなった。全力を出し切ったハッスルプレーを求め、消極的なプレーには容赦しなかった。一方で選手を集めた最初のミーティングで「君達一人一人の選手には、勝つことによって広島という地域社会を活性化させる社会的使命がある」と力説。その大局的な考え方は阿南準郎、木下強三、龍憲一、藤井弘といった各コーチや山本一義ら選手達に大きな影響を与えた。 チーム編成においても、一塁手だった衣笠祥雄を三塁手へコンバートした他、センターライン重要説を唱え日本ハムから「闘将」こと大下剛史を獲得し、二塁手として主将を任せ精神的な支柱とした。主力投手の大型トレードも断行し、計17人の選手を放出、計10人の選手を獲得した。大きな遺産として、メジャーでは一般的だったスイッチヒッター転向を高橋慶彦に指令した。他に投手ローテーションの確立、スポーツドリンクのベンチ常備、進塁打のプラス査定は、ルーツが最初に導入したともいわれる。 オフシーズンでのチーム改革の手腕からシーズンでの戦いぶりが大いに注目されたが、日米の野球の違いなどで審判と事あるごとに衝突。佐伯和司が登板していた1975年4月27日の対阪神タイガース戦で、掛布雅之への投球をボールと判定されたことに激昂し審判に暴行、退場を命じられたがそれも拒否。審判団の要請を受けた球団代表の重松良典が説得し、その場は引き下がったが、その日のダブルヘッダー第2試合を前に選手を集め、「今後広島の指揮は執らない」と言い残して球場を後にした。 その後、球団が慰留に努めたが、「契約でグラウンドでは全権を与えるとされていたのにもかかわらず、球団代表がグラウンドに出て来て説得を行ったのは権限侵害」と主張。結局、翻意させることはできず、わずか15試合のみの指揮で監督を辞任した。監督通算成績は6勝8敗1引分、勝率.429。
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広島監督時代(1973)
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慶大の同窓生だった当時のオーナー・松田耕平が将来の球団代表としてのフロント入りを前提に自ら招聘した。広島の歴代監督で唯一チームと全く関係のない監督であり、広島では開幕後もチームは好調で、6月には5年ぶりに首位に浮上し前年最下位からの優勝の声が出始めると前半戦を3位で終了。後半戦も勢いが持続するかと思われたが打線が前半と打って変わって貧打に喘ぎ、ズルズルと後退。借金を1桁にとどめたものの60勝67敗3分と2年連続の最下位に終わり、当時東洋工業(現:マツダ)の社業で多忙だった松田に代わって球団運営を仕切っていた幹部との確執から1年で退任し、松田による球団代表就任構想も実現しなかった。別当と軋轢のあったその球団幹部も体調不良を理由に辞任した。この事態を重く見た松田は東洋工業の総務課長だった重松良典を球団代表に抜擢した。
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