巨人監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:45 UTC 版)
2003年オフ、原辰徳が突然辞任した後継として巨人監督に就任する。就任会見では「青天の霹靂。この時期に全く予想していなかったし、大変なことになったなと…」と複雑な心境を吐露した。一方で「投手を中心とした守りの野球」「藤田元司さんのようなチーム作りを目指す」と早くも抱負を述べるなど意欲を見せた。監督時代の背番号は88で、これは甲府商時代の恩師・菅沼八十八郎にちなんでつけたもの。2リーグ制以降の投手出身の巨人監督は藤田に続き2人目。コーチ陣はヘッドコーチに須藤豊、投手コーチに池谷公二郎、外野守備走塁コーチに弘田澄男、二軍から阿波野秀幸(投手)、淡口憲治(打撃)、上田和明(内野)、高田誠(バッテリー)が昇格、二軍監督は高橋一三(前二軍投手コーチ)が就任、堀内は「人間的に信頼でき、技術があり、動けるコーチを選んだ。ようやく堀内丸がスタートできる」と語った。この時、レジー・スミスにコーチ要請する予定もあったが、夫人が体調を崩していたので断念している。
※この「巨人監督時代」の解説は、「堀内恒夫」の解説の一部です。
「巨人監督時代」を含む「堀内恒夫」の記事については、「堀内恒夫」の概要を参照ください。
巨人監督時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 14:40 UTC 版)
2016年 毎年スポーツ報知では、ジャイアンツ歴代監督本人の書を披露しているため、書道初体験の高橋が初披露したその年の書は、「一新」である(名前も直筆で、はしご高を採用し、「髙橋由伸」と表記)。開幕から4連勝を達成するなど序盤は好調だったが先発候補の多くが故障離脱しており先発投手が足りず5月に入り調子を落とすと広島の快進撃もあり、一時は4位にまで低迷した。だがそこから立て直して再び上位に加わった。しかし、8月24日の広島戦で敗れて広島のマジック点灯を許すと広島は勢いが加速し巨人は失速することになりその後の戦いぶりの明暗を分ける試合となった。そして9月10日の広島戦で敗れて球団史上2度目の東京ドームで他球団のリーグ優勝胴上げを見届ける屈辱を味わった。最終的に広島、DeNA、中日の3チームに負け越したがリーグ2位でシーズンを終了した。CSではCS初出場となった3位のDeNAと対戦し、初戦を落として第2戦に勝利したが第3戦は延長戦の末敗れて2011年のファーストステージ以来5年ぶりにファーストステージで敗退した。 2017年 その年の書は、「新化」である。この字のきっかけは、2016年暮れにFA宣言したDeNAの山口俊と日本ハムの陽岱鋼が入団した理由で、この字になった。前年同様開幕5連勝を記録するなど前年同様序盤は好調だったが5月中旬から徐々に失速。チームワーストの13連敗を喫するなど借金は一時2桁にまで膨らむなど低迷。ケーシー・マギーを7月下旬から「2番・二塁」で起用する攻撃的布陣で挑み8月に巻き返したが9月になると一時的に3位に浮上した時期はあったが主将の坂本、阿部、村田らのベテラン組が疲労などが原因の打撃不振に陥るなど再び失速。10月1日の阪神戦に敗れ、3位のDeNAが勝利したため勝率は最終的には前年を上回りながら11年ぶりのBクラスとなる4位が確定した。 2018年 その年の書は、「奮輝」である。 同級生の上原浩治が復帰したものの、補強組が前年の陽、山口同様不発に終わり、坂本やマシソン、二塁手として頭角を現してきた吉川尚輝など故障者の続出などもあってほとんど優勝争いができず、8月以降借金を作るなど低迷した。9月以降はDeNAとの3位争いとなり、CS進出が決まるシーズン最終戦で阪神に勝利して公式戦3位を確保した。岡本和真、吉川尚らを飛躍させたことなど若手育成に実績を挙げたことから続投を要請されるも、優勝できなかった責任もあって10月3日に監督辞任を表明した。優勝がなかった巨人の監督は堀内恒夫に次いで二人目となった。CSではファーストステージのヤクルト戦をエース・菅野のノーヒットノーランなどで2勝無敗で勝ち抜けたが、ファイナルステージはリーグ王者・広島の前に3試合連続でマギーの適時打による1点だけに抑えられ、3連敗で敗退した。監督退任に伴い、1998年の入団から21年間着続けたユニフォームをこの年限りで脱ぐことになった。監督辞任後は球団特別顧問に就任。
※この「巨人監督時代」の解説は、「高橋由伸」の解説の一部です。
「巨人監督時代」を含む「高橋由伸」の記事については、「高橋由伸」の概要を参照ください。
- 巨人監督時代のページへのリンク