山口文象の土木デザイン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/03 08:43 UTC 版)
日本では戦前に建築家が橋やダム等の土木景観/土木構築物のデザインにかかわる例はいくつかあり、明治の建築家たちは土木構造物への関与が意外と大きかったといえ、最初期が皇居二重橋や神戸港の施設群に河合浩蔵、東京・日本橋の麒麟の彫刻、欄干、照明器具等の装飾的デザインに妻木頼黄、大阪や京都の市区改正などに伴う架け替え橋梁のデザインに武田五一がかかわっている例があるほか、1885年着工の琵琶湖疏水の場合設計者の田辺朔郎のもとで滋賀県の建築技師をしていた小原益知が加わってトンネル口レリーフや水楼閣のデザインを、琵琶湖疏水の水を用いた御所水道のための九条山御所水道ポンプ室の設計には宮内省内匠寮の建築技師たちが参加している。そして海軍の技師を務めた櫻井小太郎は明治四二年(1909),下北半島の海軍大湊要港部のための軍用水道堰堤に最初のアーチ式ダムを設計しているし,また呉服橋と鍛冶橋は東京市建築営繕担当の田島穧造と福田重義らが検討している。逆にフランスでエンジニア教育を受けて帰国後東京市の下水道計画に関わりながら後文部省に移り建築家になった山口半六の例や札幌農学校土木工学科を首席卒業後鉄道院に入り鉄道技術者となった後アメリカ・イリノイ大学大学院に留学、鉄筋コンクリート構造を学び、卒業論文「鉄筋コンクリート造剛接加工の理論と実験に関する研究」でドクトル・オブ・フィロソフィー(Pr.D)の学位を取得し帰国後、東京~万世橋間で日本国内初の鉄道高架橋の設計を担当後に官を辞して独立し設計事務所を開設した阿部美樹志のように土木技師から建築家になるケースもあった。他に関東大震災の帝都復興事業における神宮外苑の街路等に佐野利器が関与などのケースや建築家が公園をデザインするようなケースがあったが、帝都復興事業で橋梁復旧を担うことになった田中豊は橋梁デザイン担当として山田守を逓信省から引き抜き、内務省帝都復興局に移って、組織の一員として担当していた。 この山田の引きで山口文象も引き抜かれ復興局の嘱託技師となる。橋の欄干、照明器具等の装飾的なデザイン(図面にサイン有り)や、橋の完成予想の透視図を描いていること、橋梁技師である成瀬氏あるいは山口本人の証言等から、橋梁デザインに関わったことは確かである。なお、この仕事は創宇社メンバーのアルバイトでもあった(竹村新太郎の談話)。 御茶ノ水の聖橋は山田守のデザインであることは、その独特のアーチの形態からも分かるが、この計画の透視図を山口文象が描いている。隅田川の清洲橋、厩橋、言問橋等の透視図も描いているから、土木構造物を透視図に描いて意匠を検討する役割を持っていたかもしれない。しかし、山口の話では、清洲橋の橋げたとそこからはねだす歩道部分の構造について、その見かけを薄く見せるデザインに腐心したというから、土木エンジニアとの共同作業もあったことがうかがえる。山口のデザインした橋に数寄屋橋があり、その欄干の丸みが特徴であり、NHKラジオドラマ「君の名は」の映画にも登場し、やはり山口が関係した朝日新聞社社屋(竹中工務店・石本喜久治設計、現存しない)と好一対の風景であったが、1964年東京オリンピック前の河川埋め立てで消えた。古典的な意匠としては、浜離宮南門橋が今もある。 山口が土木デザインでその力量を発揮したのは、日本電力の仕事で富山県の庄川と黒部川でのダムや発電所であった。特に黒部川第二発電所関係では、発電所はもちろんのこと、対岸からこの発電所に渡る鉄橋(目黒橋)、上流部の小屋平ダムと沈砂池など、一連の建築と土木デザインを真正面から行っている。黒部川渓谷の奥に施設をつくることは、風致保存上から反対意見もあり、親友前川国男の父で内務省の技官トップであった前川貫一に話をつけてもらう。小屋平ダムについては日本電力から渡欧の費用が出されて、1931年のベルリン滞在時にカールスルーエ工科大学にダム水理の権威者レーボック教授を訪ねて調査をしている(滞欧時の山口文象の手帖記述による)。黒部等での山口の土木デザインには装飾的なものは一切なくて、土木構造物そのもののダイナミックで均整のとれたプロポーションを追っており、何枚ものデザインを試みたスケッチがある。なお、箱根の湯元にも小さなダムをデザインしており、今も現存する。
※この「山口文象の土木デザイン」の解説は、「山口文象」の解説の一部です。
「山口文象の土木デザイン」を含む「山口文象」の記事については、「山口文象」の概要を参照ください。
- 山口文象の土木デザインのページへのリンク