山下七郎大尉の撃墜
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1937年の日中戦争勃発後、第二次上海事変にて森澄夫三空曹の95式水偵に撃墜された梁鴻雲の後任として8月16日に第5大隊第24中隊(長:劉粋剛)副隊長に就任、南京防空戦につく。9月26日朝、張韜良と警戒任務に就いていたところ、紫金山上空にて単独で偵察していた十三空分隊長・山下七郎大尉(兵五七期)の九六式艦戦を発見、銃撃を加える。九六戦はすぐさま雲の中に逃げ込んだ。羅は機体が雲から出てくるところを待っていたが、雲から出てきた九六戦は燃料が尽き、嘉定の田んぼに不時着して横転した。その後、陸軍兵士たちが昏倒した搭乗員を収容するところを見届けると帰投した。 大校場飛行場への帰投後、丁普明副総站長より搭乗員を捕らえた第302団の団長から、搭乗員の名前は山下大尉であるとの電話を受けた事を聞き、前敵總指揮部の戦闘報告書に山下の名前と共同で撃墜した旨を記入した。28日午後5時、羅店への偵察任務を終えた後、総站長の石邦藩より捕虜収容所として利用されていた中央体育場(中国語版)に収容されていることを聞く。2人が赴くと、山下の他には8月15日に曹娥江(中国語版)にて撃墜された95式水偵観測員の少尉、9月上旬に靖江にて撃墜された能登呂の95式水偵飛行員の飛行兵曹の2名が収容されていた。収容所は航空委員会特務旅の管轄であったが、観測員の包帯は張り替えられず傷口が腐敗するなど環境が劣悪であったため、石はすぐさま軍医を手配し、治療を行った。「自分は敗軍の将だから手当てをしてくれるな」と言う山下に、羅は「腕の傷の手当てをしなかったら、あなたは死んでいただろう」「我々はともに軍人であり、国家のために本分を尽くして戦ったのである。しかし我々同士は互いに仇敵ではない。あなたも一生懸命戦って堕とされたのだから恥じる事はない」と通訳の王少康上士越しに答えた。山下と観測員の少尉は次第に恩義を感じるようになり、自分が捕虜となっていることを伏せて記録上捕らえられた後に傷で死亡したとする事、完全に自由の身にする事、以上を自分たちの生前に公表しない事、以上を守るならば中国空軍に協力してもいいと言った。羅は40年後に公表する約束をし、自身の戦闘記録を抹消した。 山下他一名は羅と王少康のはからいで中国に帰化し、1938年1月に中国人と結婚、空軍監察大隊の雇員となる。残る飛行兵曹は抵抗し続け、南京陥落前の10月17日に漢口への移送時、警備兵に暴行を加えたためやむなく羅によって射殺された。 羅はその後も山下と度々会っており、1939年時点では航空学教授で暗号作成に携わっていた張超西の下で諜報活動に関わり、戦後は蘭州で数学教師になった。最後に会ったのは英国赴任直前の1948年4月で、酒を酌み交わし、2時間余り談笑した。最後に仏間に通され、「私には信仰心があるからそれが返って来た。羅上校、君には慈悲の心があるから、将来はきっといいものになるよ」と告げられたという。その後、大陸が共産党に制圧されて中華人民共和国が成立し、山下の消息は分からなくなる。1950年6月に英国より帰国してそのことを知ると、東京大使館の駐日武官・陳昭凱宛に「山下七郎は捕虜となった後に病気のため獄死した」との旨を日本当局に伝えるよう打電した。 一方、同じく航空兵捕虜だった白浜幸吉軍曹や、収容所内で非服従運動を展開していた陸軍第1飛行集団参謀の山田信治少佐は、山下は不時着した際すぐに昏倒したのではなく、敵兵と格闘して喉を刺され昏倒した、その後も白浜と会う39年の少し前まで声が出なかったと本人が言っていた、自由の身とはならず西安第1捕虜収容所、成都の航空委員会捕虜収容所でも反攻し続けて看守を手こずらせており「そのうち脱走してやる」と息巻いていた、山田が来てからは彼に同調して更に強硬となったため、扇動者と見なされて終戦後処刑された、と全く異なる証言をしている。ただし、羅が山下の撃墜とその後を公表する前の1981年に中山雅洋が北京で人民解放軍空軍の関係者に山下の事を尋ねたところ、その消息は掴めなかったものの、前述の蘭州で教師になった事を噂で聞いた者はいたという。 羅が山下大尉を撃墜した旨を公表したのは、39年後の1986年の事であった。
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