張韜
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張韜 | |
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『満洲紳士録 第三版』(1940年)
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プロフィール | |
出生: | 1887年(光緒13年) [旧暦]光緒13年4月[1][注 1] |
死去: | 没年不明(1946年11月23日時点では存命) |
出身地: | ![]() |
職業: | 官僚・司法官・実業家 |
各種表記 | |
繁体字: | 張韜 |
簡体字: | 张韜 |
拼音: | Zhāng Tāo |
ラテン字: | Chang T’ao |
和名表記: | ちょう とう |
発音転記: | チャン・タオ(ジャン・タオ) |
張 韜(ちょう とう、1887年〈光緒13年〉 – 没年不明)は、中華民国の官僚・司法官・実業家。別号は孔修[2][3]。中華民国維新政府を経て、南京国民政府(汪兆銘政権)において最高法院院長をつとめた。司法官としては法曹一辺倒ではなく、経済官僚や実業家としての経歴も持っていた。
事績
浙江省官立法政学堂を卒業。1916年(民国5年)2月28日、江蘇上海地方審判庁推事署理に就任し、翌1917年(民国6年)10月31日までつとめた[4]。次いで浙江大学・共和法政大学・浙江法政専門学校・浙江財務養成所で教授となる。その後、浙江省議会議員(議長)、国務院諮議、全国律師(弁護士)協会常務委員、杭州律師公会会長、浙江建業銀行常務董事(董事長)、杭徽公路長途汽車公司董事長などを歴任した。蔣介石国民政府では立法院委員兼経済委員会委員長をつとめた[1][2]。
梁鴻志による華中での親日政権樹立活動に、張韜も参加している。中華民国維新政府では1938年(民国27年)6月7日に立法院立法委員に選出され[5]、更に立法院財政委員会会長を兼ねた[1][2]。1940年(民国29年)3月30日、維新政府が南京国民政府(汪兆銘政権)に合流すると、張は最高法院院長(特任官)に抜擢された[6]。以後、汪兆銘政権崩壊まで在任していたとみられる[7]。
1945年(民国34年)9月27日、張韜は上海で漢奸として逮捕・収監された[8]。翌1946年(民国35年)11月23日、張は首都高等法院で無期懲役・公民権終身剥奪・生活費以外の全財産没収の判決を受けた[9]。その後の状況は不明である。
注釈
- ^ 『新国民政府人名鑑』(1940)、8頁は、「1886年生」としている。
出典
参考文献
- 満蒙資料協会編『満洲紳士録 第三版』満蒙資料協会、1940年。
- 『新国民政府人名鑑』外務省東亜局、1940年。
- 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1。
- 益井康一『漢奸裁判史 1946-1948』みすず書房、1977年。
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