山ン寺の伝承
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松浦源氏創成期の山ン寺については、松浦家世伝・御厨公伝(宛陵寺旧記・実相院旧記の引用)波多系図・本宗御厨系譜はじめ、松浦党諸家の文書等にそれぞれ伝承がある。また宛陵寺記その他松浦党祖関係の伝書、地元、旧上・下松浦地方の松浦党末孫の家々にも伝承や説話が残っている。各説に多少の違いがあるが、大筋はほぼ一致している。それらを総合して要約すると大体次の通りである。 松浦党の祖源太夫判官久は嵯峨天皇の後裔渡辺綱四世の孫で、平安後期の延久元年(1069年)宇野御厨荘の検校・検非違使に補され、本国の摂津国渡辺荘から松浦に下向し、松浦市今福町の半島に梶谷城を築いた。その職と所領は上・下松浦郡(唐津・伊万里・佐世保・平戸を含む)彼杵・五島・壱岐・杵島の一部、東松浦地先諸島の一部、伊万里湾地先諸島におよび、九州西北海上に強固な基礎をきずいた。 直夫人は、夫を山内に葬り総持寺をその菩提寺とし生涯父と夫の霊を弔った。直夫妻の侍女達は剃髪して夫人に従った。直夫人の墓は直の墓の近くにある。総持寺は創建いらいの真言密教寺で荘内所領地各地に末寺があった。末寺を統轄する本寺なので総持寺とよばれた。 鎌倉初期、直の六男囲は山代浦の地頭に補され飯盛城を所領した。囲から十二代の裔山代虎王丸(山代孫七郎貞、のち鍋島喜左衛門茂貞)は天正4年(1576年)龍造寺隆信に飯盛城を攻め落され、山ン寺砦に退いて抗戦したが、遂に降伏した。 虎王丸は天正15年(1587年)豊臣秀吉の命で鍋島直茂に付され、同17年(1589年)山代東部を召しあげられ、長島庄芦原(杵島郡橋下地区)に移封された。貞は家臣17人、足軽50人を引具して父祖の地山代を去り、一族の山代六郎左衛門はじめ家臣百七家は山代西部の貞の領地に残留した。囲統治いらい三百九十二年目であった。この残された山代郷西部も慶長時代小城藩の支配下に入った。 山代東部には天正17年田尻鑑種が入部した。鑑種はもと筑後鷹尾城主、のち隆信の臣となった勇将である。 不鉄は山代町楠久在の松浦党の一族鴨川家の出身である。 総持寺は山代家の庇護を失って混乱した。不鉄はみずから総持寺の復興に当り、旧山代家臣はじめ郷民の協力を得て宗廟を守り、新たに禅門の道場たらしめたので、山ン寺中興の師と仰がれた。 不鉄は文禄の役(1592年)に際し豊臣秀吉の命に背いて寺鐘の供出も一山の僧の朝鮮従軍も拒否した。「大治久安の中一古いらい幾百千の霊を済度した宗廟の寺宝をみだりに戦陣の鐘とするのは孝の道に背き、修業中の未熟な雲水を戦陣に付するのは仏の道に背く」との宗教的信念を貫いたのだという。 秀吉は怒って従軍の命に従わない末寺もろとも総持寺を取りつぶし、寺院堂宇をすべて焼き払ったとも解体して名護屋陣屋の用材としたともいう。不鉄は身を以て有田唐船城にかくれ、寺鐘は船で名護屋に運ばれる途中伊万里湾内金井崎水道で沈没した。 慶長3年(1598年)秀吉が死ぬと朝鮮の役も終った。旧山代家の家臣たちを中心に郷中の庶民たちは山寺の復興を志し、山祇神社の焼跡に祠堂を再建し、もとの通り十二社権現と久・直夫妻・清三代の霊を合祀して血族結縁の拠り所とした。いらい山祗神社は、東西松浦郷の氏神とされ、再び真言密教の巡拝地となり、文珠原山文珠菩薩とあわせて修験者の入峰地ともなった。 寛政初年(1748年)不鉄の徳を慕って山ン寺の廃墟を訪れた一禅人海老庵澄江は旧総持寺本堂跡に釈迦堂を建て庵を結び終の住み家とした。感激した川内野部落の人々が、寺鐘と鐘楼を寄進した。この鐘は大東亜戦争中供出された。 澄江没後山ン寺は住待する者も絶えて無住の庵となった。総持寺廃滅後250年間山寺は時代の陰に埋没した。 平戸藩士景峻が主命によって藩公の父祖発祥の地山寺を調査したのは弘化2年(1846年)8月である。 景峻は山代家遺臣の子孫黒川六郎左衛門と墓守山口団蔵の案内で始祖源直の墓を確認し、葎に埋もれていた直夫人の墓を探し出した。
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