山一危機にあたって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/01 03:37 UTC 版)
1964年10月、日本四大証券の一つである山一證券が危ないという話が単なる風聞ではなく、かなり信憑性の高い情報として兜町界隈で囁かれるようになり、11月、山一の後ろ盾となっていた日本興業銀行頭取の中山素平らは、名うての相場師である社長の大神一を退任させる一方で、興銀出身の日高輝を新社長として送り込み、経営の立て直しにあたらせることにした。しかし、突然の社長交代交代劇は関係者の間に山一の病状がかなり進行していることを強く印象づける事になり、新聞社の一部が取材に動き始め、明くる年の一月、中山のもとに日刊工業新聞記者がやって来て、「山一危機」を記事にすると通告する。慌てた中山は、再建策もまだ煮詰まっていない段階で、新聞に「山一危機」のことが書かれてしまったら、全てが画餅に帰すとして、日刊工業新聞首脳に記事を差し止めて欲しいとたのむ一方、大蔵省にも連絡を取った。省内でも有数の証券通として知られ、証券部長を経て財務調査官に就いていた加治木俊道はその知らせに衝撃を受け、今の段階で「山一危機」が明らかになれば、自分らが半年がかりで進めた証券取引法の改正案は国会で審議されずお流れなるばかりか、ニュースのでたその日の朝から、山一には客が殺到して、取り付けパニックが起き、山一の取り付け騒ぎはほかの証券会社にも飛び火して、しまいには証券会社に大量の金を貸し付けている大銀行への取り付け騒ぎへとエスカレートするに違いないと確信した。 加治木は昭和金融恐慌の二の舞だけは避けなければならないと思い、記事の差し止め、報道管制を敷くことはできないだろうかと考え、関税率審議会の事務方をしていたときに委員として知り合い、口が堅くて新聞界に顔が効き、人柄にも信頼を寄せていた専務・主幹だった圓城寺のもとを、上司にはまったく相談せず、自分一人の判断で訪ねた。加治木は「山一危機」について洗いざらい圓城寺にぶちまけ、せめて山一の再建策が固まるまで報道各社に記事の差し止めをお願いすることはできないだろうかと相談を持ちかけた。すると、圓城寺は「東京には、朝日、毎日、読売、サンケイ、日経、東京、共同といった在京大手の新聞、通信社の経済部長からなる七社会というものがあり、この七社会で報道協定を結べば記事は書けなくなる。さらにNHK、時事、日刊工業の三社も七社会の準加盟社だから、書かないという協定にはある程度拘束される」と答えた。圓城寺は、決して「こうしたらどうですか」という表現は使わなかった。あくまで七社会の存在と機能を伝えただけだった。しかし、加治木にはそれで十分だった。口封じの道はひらけたのである。 加治木はさっそく、七社会の幹事社を通じ、各社の経済部長に連絡をつけ、日ならずして報道協定は締結された。だが、せっかくの協定も七社会からあぶれていた西日本新聞が独自に集めた情報をもとに「山一、経営難乗り切りへ」の見出しを掲げて朝刊トップで大きく報じ、御破算になってしまう。しかし、少なくても西日本の記事が出るまでの間、一ヶ月近くも「山一危機」はパンドラの匣の中にとじこめておくことができた。朝毎読をはじめとする有力紙が記事を差し止めている間、山一の再建策の骨格はほぼできあがり、西日本にスッパ抜かれた時にはすでに詰めの段階に入っていたのだった。加治木ら大蔵省サイドからすれば、報道管制による時間稼ぎは、百点満点とまでには行かなくてもそれなりに成功をおさめた格好となった。
※この「山一危機にあたって」の解説は、「圓城寺次郎」の解説の一部です。
「山一危機にあたって」を含む「圓城寺次郎」の記事については、「圓城寺次郎」の概要を参照ください。
- 山一危機にあたってのページへのリンク