山一最後の社長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 08:59 UTC 版)
当時山一は総会屋利益供与問題と無関係であり、尚且つ簿外債務について知らない者から社長を選ぶ方針であったと言い、そうしたことから野澤が社長に選任された。 野澤は社長に就任してから初めて、山一證券が2,600億円という巨額の簿外債務を抱えていることを知った。前会長・行平次雄は自らが傷口を決定的に広げた問題の尻拭いを前社長・三木淳夫に押し付け、三木も簿外債務を処理することができないまま総会屋利益供与問題で職を追われていた。 しかしながら、野澤ら新経営陣は当初、廃業という選択は考えておらず、リストラで事業を整理縮小してでも、会社を存続させる方針であった。 莫大な簿外債務の存在を知らされた野澤らは、週明け月曜日(簿外債務の存在を知らされたのは8月16日の土曜日)ただちにプロジェクトチームを発足させた。メリルリンチとの提携や、規模縮小などで会社の存続を図ったが、この問題はそもそも野澤が知らされた時点で、もはや手に負える様なものではない致命傷であった。東京証券取引所で株価の下落は止まらず、メインバンクの支援も得られず、最後には大蔵省にも見放される形で、山一證券の自主廃業を決定せざるを得なかった。野澤が社長に就任して、僅か3ヶ月での廃業決断だった。 1997年(平成9年)11月24日月曜日は、勤労感謝の日の振替休日で休業日だったが、午前6時から山一證券臨時取締役会が開かれ、自主廃業に向けた営業停止を正式に決議した。同日午前11時30分、東京証券取引所において、自主廃業を発表する記者会見が行われた。2時間以上も記者からの質疑が続いたのち、読売新聞東京本社の経済部記者中村宏之の「社員にはどのように説明するのですか」という質問に対して、野澤は、 これだけは言いたいのは…私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから!。どうか社員のみなさんに応援をしてやってください、お願いします!私らが悪いんです。社員は悪くございません‼︎善良で、能力のある、本当に私と一緒になってやろうとして誓った社員の皆に申し訳なく思っています! ですから…一人でも二人でも、皆さんが力を貸していただいて、再就職できるように、この場を借りまして、私からもお願い致します! — 野澤正平、山一證券代表取締役社長 と、感極まる苦悶の面持ちで社員を庇いつつ、立ち上がって深々と頭を下げた様がテレビで大々的に放送されて注目された。それまでは普通にある質疑応答で、野澤も事前に用意された原稿を事務的に淡々と読み上げるだけの会見であったが、2時間ほど経った中村宏之の質問がきっかけで雰囲気が一転し、この発言となった。 経営トップが率先して行った誠実な謝罪をした記者会見が話題となった。また、この記者会見は三洋証券・北海道拓殖銀行・日本長期信用銀行・日産生命保険を始めとする、金融機関が立て続けに倒産した平成不況時代を象徴する映像としても有名である。 野澤は後に、このときの涙の意味について、「一つは、オリンピックなどでスポーツ選手が見せる、がんばったけど駄目だったという悔し涙。私も社長として、100日間がんばったけど、力が及ばずに、ああなってしまったという悔し涙」「そして、もう一つの意味は、山一證券に在籍した7,700人の従業員、関連グループ会社を含めて1万人、さらに彼らの家族を含めた3万人がこれで路頭に迷ってしまう。なんとか助けてもらいたいと訴える涙」「気持ちとしては、後者の方が強かった。なんとか社員が路頭に迷うことは避けたい。それには涙で訴えるしかない。この気持ちが7割から8割を占めた」と述べている。 山一の破綻によって、従業員全員が解雇され、顧客や融資先などにも多大な損害を及ぼした。にも関わらず、歴代社長職を務めた東京大学や一橋大学といった学閥出身でない野澤の男泣きは、野澤に対してだけでなく山一の一般社員に対する世間の同情を大いに集める結果となり、全社員が応じても余りあるほどの求人を受けたという。簿外債務事件に関与していなかったため、刑事訴追されなかった野澤自身も、自主廃業の業務に追われる傍ら、自ら社員の履歴書を持って求職活動を行った。このような経緯やその人柄もあって、当時の山一證券の社員からは未だに尊敬や信頼を受けており、現在でもしばしば交流を行っているという。 1999年(平成11年)6月2日、東京地方裁判所による山一證券の自己破産宣告をもって、「最後の山一社長」としての使命を終えた。山一證券勤続35年であった。
※この「山一最後の社長」の解説は、「野澤正平」の解説の一部です。
「山一最後の社長」を含む「野澤正平」の記事については、「野澤正平」の概要を参照ください。
- 山一最後の社長のページへのリンク