三洋証券とは? わかりやすく解説

三洋証券

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/22 14:30 UTC 版)

三洋証券株式会社
Sanyo Securities Company Limited.
種類 株式会社
本社所在地 日本
135-0043
東京都江東区塩浜2-7-14
設立 1943年昭和18年)9月8日
(土屋證券株式會社)
業種 証券、商品先物取引業
事業内容 証券業
代表者 池内孝
資本金 39,763百万円
発行済株式総数 287,556千株
売上高 52,307百万円
営業利益 1,743百万円
経常利益 2,222百万円
純利益 7.73円
決算期 3月31日
関係する人物 土屋陽三郎(創業者)
特記事項:2009年3月25日に破産手続きが終結し消滅。
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三洋証券株式会社(さんようしょうけん、: Sanyo Securities Company Limited.)は、かつて存在した日本証券会社[1]

概要

三洋証券は、野村証券から出資を受けたがオーナー色が強く独自路線であった。バブル期に積極的な不動産投資を行ったほか、コンピュータ関連への投資にも積極姿勢を示し、1988年に江東区塩浜に開設した本社別館内のトレーディングルームは、広さ約6400㎡、最大800人のディーラーが同時に取引を行える規模で、当時「東洋一」と謳われた[2]

バブル崩壊後、本業の赤字に加え「三洋ファイナンス」など系列ノンバンク4社の不良債権が膨らみ、その処理が重しとなった。前述のコンピュータ投資も負担となり、雪だるま式に債務が膨張、借入金返済不能となった[3][4]

三洋電機三洋貿易三洋信販三洋物産三洋産業とは一切無関係であった。

倒産まで

赤字から脱却できず、経営危機として、1994年3月17日、旧大蔵省証券局の主導で再建9ヵ年計画を発表、メインバンクの金利減免、株主の野村證券などに200億円の第三者割当増資生命保険会社から200億円の劣後ローン、9年間かけて不良債権を償却する計画だった[1]

しかし三洋証券は、1992年3月期以降、1997年3月期の倒産まで6期連続の赤字、債務返済の目途が立たず、計画は頓挫した[1]

生保の劣後ローンを自己資本に繰入れての自己資本比率200%を、経済各誌は不安視した。その後自己資本比率が、169.4%まで急降下したところで自転車操業が明らかとなる。当時免許制の証券業は、自己資本比率が120を割り込むと大蔵省の業務改善命令が発令される[1]

1997年春、主力銀行が株式の持合い解消、三洋証券と関係ない生保各社は、焦げ付く可能性の高い劣後ローンに否定的で、1997年7月、生保側は3ヶ月の延長しか認めず「早急の新再建案の提示条件付」。生保が劣後ローンを断り「延命の中止すなわち倒産」となる時期に衆目が注視。事実上の最後通告となった[1]

1997年9月26日付産経新聞が、同じ野村証券系の国際証券と合併計画をスクープしたが、野村証券自身も損失補填、総会屋事件で社長や関係者が逮捕され赤字に陥り、問題の多い三洋証券、国際証券など系列証券と関係を断つ可能性があった[5][6][7]。合併相手の国際証券も損失補填や法令違反が報道されるなど先行き不透明な課題を抱え衆目を集めた[8]

1997年10月31日、劣後ローン延長期限が終了[1]。生保側は株主代表訴訟リスクから延長を認めず、この時点で倒産は不可避となった[1]

債務不履行と無担保市場の大混乱

1997年11月3日会社更生法の適用を申請した[1]。この倒産劇自体はそれほど世間の注目を浴びたわけではなかったが、戦後初の金融機関での債務不履行デフォルト)を三洋証券が起こしてしまった[1]

1997年11月4日、三洋証券が経営破綻し、群馬中央信用金庫が三洋証券に貸し付けていた無担保コール約10億円が債務不履行デフォルト)で回収できなくなり、連動する国内外の無担保コール市場が大混乱に陥った。それは10月31日(金曜日)に借り入れた無担保コール翌日物の返済期限である11月4日(火曜日)を待たずして、三洋証券が11月3日(月曜日・祝日)に会社更生法の適用を申請してしまったことが原因だった[9]

日本の金融機関は、インターバンクのコール市場で日々資金調達している、1円たりとも不決済があってはならない。ところが三洋証券による10億円の返済不能が、日本の金融システムの信用を失墜させ、ジャパンプレミアムの原因を作ってしまった。これにより、北海道拓殖銀行山一證券德陽シティ銀行のように既に経営が悪化していた金融機関の資金調達は、ますます困難になり、3社とも11月中に経営破綻に追い込まれている[10][11][12][13]

1998年三井海上火災保険が名乗り出たがまとまらず、6月に経営再建を断念、8月には従業員全員を解雇、1999年12月に会社更生法を取り下げて破産宣告を受けた。2009年3月25日に破産手続が終結し、法人は消滅した[14]。前述した本社別館は、2000年に東洋情報システム(現・TIS)が買収しデータセンターとして利用された[15]

沿革

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 三洋証券倒産:自力での再建断念--負債3736億円」『毎日新聞毎日新聞社、1997年11月3日。オリジナルの2001年1月7日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  2. ^ 破綻した三洋証券、東洋一のトレーディングセンターで描いた証券界の未来 - DIAMOND online・2023年6月7日
  3. ^ 三洋証券倒産:全国各店舗で預かり資産返還業務など始まる」『毎日新聞』毎日新聞社、1997年11月4日。オリジナルの1999年11月5日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  4. ^ 三洋証券倒産:劣後ローン返済不能で全額不良債権償却--生保」『毎日新聞』毎日新聞社、1997年11月4日。オリジナルの1999年11月5日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  5. ^ 三洋証券合併報道:「事実無根」と否定--国際証券副社長」『毎日新聞』毎日新聞社、1997年9月26日。オリジナルの2000年12月14日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  6. ^ 三洋証券:営業資産の譲渡検討」『毎日新聞』毎日新聞社、1997年9月26日。オリジナルの2000年12月14日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  7. ^ 利益供与:野村初公判 元社長の3被告ら起訴事実認める」『毎日新聞』毎日新聞社、1997年11月25日。オリジナルの1999年11月3日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  8. ^ 三洋証券:3行の緊急融資決定 資金繰りの不安除く」『毎日新聞』毎日新聞社、1997年10月6日。オリジナルの2001年1月21日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  9. ^ 島村 高嘉、2014、『戦後歴代日銀総裁とその時代』、東洋経済新報社 ISBN 9784492654606
  10. ^ 金融機関の破綻事例に関する調査報告書金融庁)P64
  11. ^ 拓銀:拓銀、都銀初の破たん、営業権を北洋銀に譲渡」『毎日新聞』毎日新聞社、1997年11月17日。オリジナルの2000年11月17日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  12. ^ 山一証券破綻:蔵相、日銀総裁、山一証券社長の記者会見=要旨」『毎日新聞』毎日新聞社、1997年11月24日。オリジナルの1999年9月8日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  13. ^ 山一証券廃業:自主廃業発表直前に前会長ら顧問全員を解任」『毎日新聞』毎日新聞社、1997年11月27日。オリジナルの2000年12月1日時点におけるアーカイブ。2025年8月22日閲覧。
  14. ^ 官報 2009年4月6日 第5045号 19ページ
  15. ^ データセンター事業に本格参入 積極買収で成長の波に乗る - 日経XTECH・2000年10月2日
  16. ^ 一般社団法人日本建設業連合会 BCS賞受賞作品 第30回受賞作品

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