山一抗争の影響
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稲川会の仲裁によって取り敢えず表面上は抗争終結となったが、終結に動いた渡辺・中西・岸本ら山口組執行部と、あくまで抗争継続の構えを見せた竹中武は対立していた。山口組が抗争終結を決定した直後には竹中が山口組からの竹中組離脱の構えを見せたが山口組側からの慰留で結局中止した。1988年5月14日には竹中組安東会会長安東美樹が山本宅を襲撃、警備の警察官3人が巻き込まれて負傷。山口組側は岸本本部長自ら、「襲撃犯が自分の組内にいるならば警察に自首させ、今後警察官や市民を銃撃した者は処分する」ことを直系組長に通達させている。 一連の襲撃について渡辺は「シャブ打ってやったとしか思われない。プラスになることは一つもない」と安東を非難している。これに対して竹中武は「自分の組の者(1月3日に山広組事務局長浜西時雄を射殺し、8月8日に覚せい剤取締法違反で川西警察署に逮捕されていた井上浩のこと)がシャブ中だろう。渡辺が山口組五代目では、強い山口組にはなれない」と発言し、これら竹中組を中心とした抗争継続はその後の山竹抗争の要因となってくる。安東は山口組一心会川崎組組員となり、1990年9月12日午前1時前に大阪市北区西天満1丁目の中華料理店で逮捕されている。 一和会も抗争終結で一息ついたと思いきや、その後も山口組からの硬軟両面の締め付けが続き、大幹部の加茂田重政や松本勝美まで組の解散・ヤクザからの引退に追い込まれた。1988年10月には構成員数200人(兵庫県警発表)にまで衰退、1989年3月19日に山本が神戸市の東灘警察署に出頭、自身のヤクザからの引退と一和会解散を表明し会は消滅した。 この抗争は国内最大の暴力団組織で勃発した内紛ということもあって、ヤクザばかりか一般社会にまで広く影響を及ぼす格好となった。1985年4月23日午後6時過ぎには、神戸市中央区花隈町の山口組山健組事務所近くの駐車場で、一和会加茂田組組員が走行中の車内から拳銃で発砲。山健組高橋組組員川崎竜夫(4日後に死亡)ら3人が負傷したばかりか、通行中だった団体職員も右足に流れ弾が当たり全治1ヶ月の重傷を負った。抗争で初めて市民が巻き込まれた上に、折しも神戸市ではユニバーシアード神戸大会が1985年8月28日から同年9月4日まで開かれる予定だったため、元神戸市長で弁護士の中井一夫が7月19日に山口組と一和会に抗争休止を呼びかけるに至った(事実、開催期間中に山口組と一和会は休戦状態となっている)。3月には浜松市の一力一家事務所への銃撃から地域住民による撤去活動が始まり(一力一家組事務所撤去活動)、11月には競馬や競輪などの公共施設への暴力団の立ち入りが禁止され始め、暴力団員の締め出しが一挙に進む切っ掛けにもなった。さらには的屋が巻き込まれたことにより、祭礼や催事での露店の出店が制限される事態ともなった。 この様に社会的に多方面の影響を及ぼしたことから、暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律制定の切っ掛けにもなり、1986年5月24日には全国の警察庁暴力団取締担当課長69人を集めた「全国暴力団取締り主管課長会議」の席上、警察庁長官金沢昭雄が山口組壊滅のために徹底的な集中取締りをするように指示するまでに至った。その一方で、警察庁は一連の抗争を敢えて長期化させることによって、山口組と一和会の両者の弱体化を狙っていたという見方もある。兵庫県警察の試算によれば、両団体が抗争に費やした金銭は20億円に達し、ある関係者は双方合わせて500億円の減収になったと見ている。 竹中組長殺害を指揮した石川裕雄は、1986年7月12日、福岡県福岡市のゴルフ場で逮捕された。一審では死刑を大阪地方検察庁から求刑されたが、1987年3月14日に大阪地方裁判所より無期懲役の判決が下りて、大阪高等検察庁が控訴。1989年3月20日、大阪高等裁判所により控訴が棄却されて双方上告しなかったことから、無期懲役の判決が確定した。石川裕雄は2018年現在も旭川刑務所で服役しており、仮釈放申請を拒否している。 竹中組長殺害を指示した後藤栄治は、2020年現在も消息不明となっている。
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