天守の復元
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天守の復元計画はは1980年代半ばに、高松市が市議会の意を受け天守閣の復元に動き、外観姿図を含む構想を策定し、文化庁に提出したが、審議の対象にすらしてもらえなかった。1996年にも史跡高松城跡保存整備計画としてまとめたが結果は同じで認めらなかった。2003年には香川証券の平井二郎会長は、高松市にある出版社の文教社の協力を得て、天守の資料を作成し、地元経済人らに働き掛け、「玉藻城再建の会」(仮称)の設立準備を進めた。当時、平井会長は、資料が乏しいといっても小倉城(北九州市)を参考に建てられたとされ、同じ津山城、岩国城(山口県岩国市)の絵図などが参考になるはずとして、復元より再建と持論し、「史実にすべて沿った『復元』は不可能。ならば、現実に即した夢の城に『再建』を」。木造による本格的復元にこだわるべきではないとし「市民が気軽に上がれる城でなければ。エレベーターを付けるなどバリアフリーへの対応も必要」と訴えていた。文化庁は文化財保護の立場で史跡での復元の基準を1967年以降厳しくしており、資料不足を理由に外観だけの復元は認めないと拒否して来た。2003年夏、この地区が国の構造改革特区に申請されたことで、それまで「資料が写真一枚しかない」ことを理由に復元の拒否をしてきたとみられた文化庁が復元に対する考えを軟化させたため、その後、高松市は整備検討委員会を設置し、2010年の着工を目指して準備を進めていたが着工には至っていない。高松城天守に関する資料は明治17年(1884年)までに撮影された1枚の写真のみとされていたが、2005年秋頃、より鮮明な2枚目の高松城天守の古写真(1882年撮影)がイギリス・ケンブリッジ大学で発見された(上記写真参照)。このことが更なる資料発見の可能性や復元運動につながることが期待されている。一方、天守台の石垣が老朽化してきたため、その対策として2006年より石垣の解体修理工事が実施され玉藻廟も解体された。この修理作業は将来の天守復元も視野に入れ、石垣の内部構造の確認と石垣の積み直し工事が実施された。 2009年3月、生駒家の家紋(波引車)を模した瓦が堀底から初出土した。天守に使用されていた可能性が高い。これまでは松平家のものしか出土しておらず、生駒氏が築城した高松城、丸亀城、引田城の跡で家紋が入った瓦が出土するのは初めてである。 内部構造復元に向けての資料発見に対し、高松市が3000万円の懸賞金を提供することになり、情報が求められている。 また、NPO法人高松城を復元する市民の会が組織され、10万人を目標として署名活動が行われている。2008年1月現在8万を超える署名が集まっている。 石垣の土台部分の発掘調査により、天守の礎石や柱の痕跡などが発見されており、地下1階(穴蔵)の平面が判明した。土台痕跡から地下1階と1階の平面が判明したが、まだ高松城を復元する為の内部の資料としては不十分であるとされている。復元する為に現在も存在している月見櫓と艮櫓を参考にした図面が2案制作された。地下1階から3階までは城内に現存する月見櫓と艮櫓を参考にした2案が、3階から4階までは「諸神の間」と呼ばれる最上階(4階)の解釈によって2案が考えられ、計4案の復元案となった。それでも階段や、間仕切りなど不明なところもあるので資料の収集に努めているが資料は見つかっていない。市は現在、文化庁が新しく設けた復元基準の「復元的整備」として天守の復元を目指すとしている。
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