天守の存在
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伊丹氏の伊丹城は数多くの戦闘を繰り返してきた城である。天守の初見の一つと考えられている、伊丹城の天守については細川両家記に徴証が見られる。伊丹氏、瓦林氏共細川高国方で地理的にも近く、両名とも文化的関心の高かった武士であることから、城郭を美しくしたと考えられている。「越水城にも天守閣があがっていたのではないか」と指摘されている。 また関西学院大学の永島福太郎名誉教授によると「伊丹城に天守閣があったのなら、越水城にもあったといえようし、むしろ日本の最古の天守閣の初見は越水城といえそうである」としており、越水古図の北側には天守台らしきものが確認できる。 これらのことにより瓦林正頼は当時としては大規模な城郭を築いたのではないかと考えられている。
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天守の存在
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/28 18:04 UTC 版)
長らく鳥羽小学校の敷地となっていた本丸跡は2009年(平成21年)に同校が校舎の老朽化を理由に移転した事を契機に、翌年の2010年(平成22年)に天守台や本丸御殿の遺構確認を主たる理由とした発掘調査を実施した。その際に天守曲輪に関連するとみられる雨落ち溝などの遺構を確認できたものの天守台と推定される場所は削平が著しく石垣の痕跡は確認できなかった。しかし平成25年(2013年)に鳥羽市立図書館で、天守の具体的な寸法が書かれた古文書が保管されていることが分かった。その古文書によると、天守の一重目と二重目は正面5間と奥行6間、三重目が3間半と3間1尺の広さを有し、四方には3尺の走りが取り付けられていた他、天守台には納戸が設けられていたという。
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