天守の傾き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 04:59 UTC 版)
明治時代の天守の傾きの原因は、軟弱な地盤の上に天守の基礎工法として採用された天守台の中に埋めこまれた16本の支持柱の老朽化により建物の自重で沈み込んだことにあると見られている。また安政元年(1854年)の安政東海地震で大規模な被害や火事の記録があり、この時本丸と三の丸の櫓、大手門枡形の塀などが潰れ、天守や太鼓門、本丸の裏門などが大破したとされている 貞享騒動(加助騒動、嘉助一揆)の首謀者・多田嘉助が磔刑に処せられる際に、天守を睨んで絶叫した怨念によって瞬時に傾いたといわれる伝説があるが、これは天守が傾き始めた明治になってから作られた話である。
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