多賀城碑壺碑説
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江戸時代の初め頃、多賀城跡付近のある市川村で石碑(多賀城碑)が発見された。この碑は発見当初から「つぼのいしぶみ」であるとされ、当時の記録に残っており(『国史舘日録』など)、また多くの拓本もとられた。松尾芭蕉はこの碑を「つぼのいしぶみ」とし、『奥の細道』の旅中にここを訪れている。また、明治時代にも論争を呼んだ(多賀城碑偽作説)。田村麻呂が到達している地点であることは事実と一致するが、『袖中抄』にあるような、日本の中央のよしを書いたということ、「つぼ」という地名や四、五丈(12~15メートル)の石に書いたという記述とは一致しない。また彫られている天平宝字6年の西暦762年は田村麻呂が活躍する以前の年号である。 1455年(康生元年)頃、『名所追考抜書』という書に引用されている連歌師の忍誓の話で、千引石の説明の中で「雲葉和歌抄に、忍誓と申す連歌師くだりて、坪の石ふみ苔むしたるあらはして、文字書きうつし給ふ。その後見し程に、我等もうつして所持す。彼の碑の所在、高(宮ィ)城郡岡辺にあり。高森殿守護にて云々。」とある。しかし、『雲葉和歌抄』という書物は今日伝わっておらず、「我等」とする人物も不明で、書きうつしたとされる文章も記されておらず、それらを照会するすべはない。 1480年(文明12年)の奥書をもつ『西行物語』(『続群書類従』収録)には、白川の関の記事に続いて、「さてつぼのいしぶみぬさのたけゆふせんふくなどあはれにみまはして、ある野の中を過ぎけるに、ことありがほのつかのみえければ、道にあひたる人にあれは何と申すつかぞとたづぬれば、中将実方朝臣の御はかなりと申しければ、いとどかなしさまさりて…」とある。この記述からは、つぼのいしぶみが中将実方朝臣(藤原実方)の墓(宮城県名取市愛島村)に近いとも受け取ることができる。しかし『西行物語』は異本が多く、諸本の異同が甚だしい。 多賀城碑が「つぼのいしぶみ」と結びつけられたのは江戸時代のことであり、当時は古来からの歌枕を自領に置こうという動きがあった。多賀城碑が「つぼのいしぶみ」となったのも仙台藩の強い意図があったと言われている。 『文禄清談』という書物の4巻に「奥州坪石文之事」という記事がある。これは奥州宮城野の坪石文の由来を述べたものである。おおよそ、次のようなことが書かれている。昔、征夷の頃宮城野で戦いがあって、官軍が勝利し賊軍を捕らえた。賊軍は重ねて敵対しない旨の誓約文を石に彫りつけて土中に埋めた。これが坪石文である。永禄(1558-1570年)の頃、農民が畑を開墾しようとして石を掘り出した。石の面に文字が見えたので村の長に知らせ、村の長は文字を書き留めて石を元のように埋めた。その文章を見ると、大平年中大野東人軍忠ありし事、東西南北の道のりなどが記してあった、というものである。『文禄清談』の成立年台ははっきりしないが、内閣文庫のものには「寛文7年仲春摂州大坂ニテ書写ノ軍畢」と奥書があり、少なくとも寛文7年(1667年)には多賀城碑がつぼのいしぶみと呼ばれていたことは認められる。 『伊達治家記録』に、承応2年(1653年)7月21日、伊達忠宗が領内を巡見し帰城した記録がある。その後に、儒臣内藤閑斎の「封内山海之勝」という文書が付載されている。その中には領内名所旧跡が列挙され、その中には壺碑の名も見える。この文書は延宝初年(1673年)頃のものである。また、延宝年間(1673-1681年)に仙台藩の文書として『仙台領古城書上』がありその中に壺碑の記述もある。仙台藩内の文献としてはこれらがもっとも古いものである。 多賀城碑を壺碑と呼ぶことは、ほとんど発見の当初からのようで、しかもかなり早い時期から全国的に認められたと考えられる。林春斎の『国史館目録』の寛文9年(1669年)の9月17日の条に「長谷川藤信来リテ奥州壺ノ碑ノ刻文ヲ示シテ曰ク…」という記事がある。寛文の頃から仙台に滞留していた俳人大淀三千風は、天和2年(1682年)『松嶋眺望集』を刊行し、その中で壺碑の全文を紹介している。これが、全国の俳人や文雅の人々に多賀城碑を広く知らしめる役を果たしたと思われる。京都の儒医黒川道祐の『遠碧軒記』(延宝年間成立)の中で、壺の碑が紹介されている。この文章は井原西鶴の『一目玉鉾』『国花万葉記』『和漢三才図会』などの壺碑のもとになっている。松尾芭蕉は多賀城碑の予備知識を『一目玉鉾』や『松嶋眺望集』から得ていたふしがある。このように、多賀城碑は発見当初から壺碑と呼ばれていたが、歌枕のつぼのいしぶみとの関係に疑いが持たれるのは南部藩の坪石文に対する関心が生じて以降のことで、ほぼ18世紀に入ってからと思われる。もっとも、地元における里人はこの石碑を立石と呼んでいたことが伝わっている。 当碑の発見後、『碑の写し』は古物珍重の風潮により贈答品として用いられようにまでなるが、藩より「碑からの採拓」が制限されても版が起こされて摺られた『拓本』が量産され、その版木が現存している。
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