多賀城碑壺碑説とは? わかりやすく解説

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多賀城碑壺碑説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 00:48 UTC 版)

つぼのいしぶみ」の記事における「多賀城碑壺碑説」の解説

江戸時代初め頃、多賀城跡付近のある市川村石碑多賀城碑)が発見された。この碑は発見当初から「つぼのいしぶみ」であるとされ、当時の記録残っており(『国史日録』など)、また多く拓本もとられた。松尾芭蕉はこの碑を「つぼのいしぶみ」とし、『奥の細道』の旅中にここを訪れている。また、明治時代にも論争呼んだ多賀城碑偽作説)。田村麻呂到達している地点であることは事実一致するが、『袖中抄』にあるような、日本中央のよしを書いたということ、「つぼ」という地名四、五丈(1215メートル)の石に書いたという記述とは一致しない。また彫られている天平宝字6年西暦762年田村麻呂活躍する以前年号である。 1455年康生元年)頃、『名所追考抜書』という書に引用されている連歌師の忍誓の話で、千引石の説明の中で「和歌抄に、忍誓と申す連歌師くだりて、坪の石ふみむしたるあらはして、文字書きうつし給ふその後見し程に我等うつして所持す。彼の碑の所在、高(宮ィ)城郡岡辺にあり。高森殿守護にて云々。」とある。しかし、『和歌抄』という書物今日伝わっておらず、「我等」とする人物不明で、書きうつしたとされる文章記されておらず、それらを照会するすべはない。 1480年文明12年)の奥書をもつ『西行物語』(『続群書類従収録)には、白川の関の記事続いて、「さてつぼのいしぶみぬさのたけゆふせんふくなどあはれにみまはして、ある野の中を過ぎけるに、ことありがほのつかのみえければ、道にあひたる人にあれは何と申すつかぞとたづぬれば中将実方朝臣の御はかなりと申しければ、いとどかなしさまさりて…」とある。この記述からは、つぼのいしぶみ中将実方朝臣藤原実方)の墓(宮城県名取市愛島村)に近いとも受け取ることができる。しかし『西行物語』は異本多く諸本異同甚だしい。 多賀城碑が「つぼのいしぶみ」と結びつけられたのは江戸時代のことであり、当時古来からの歌枕を自領に置こうという動きがあった。多賀城碑が「つぼのいしぶみとなったのも仙台藩の強い意図があったと言われている。 『文禄清談』という書物4巻に「奥州石文之事」という記事がある。これは奥州宮城野の坪石文由来述べたのであるおおよそ次のようなことが書かれている。昔、征夷の頃宮城野戦いがあって、官軍勝利し賊軍捕らえた賊軍重ねて敵対しない旨の誓約文を石に彫りつけて土中埋めた。これが坪石文である。永禄(1558-1570年)の頃、農民が畑を開墾しようとして石を掘り出した石の面に文字見えたので村の長知らせ村の長は文字書き留めて石を元のように埋めた。その文章を見ると、大平年中大野東人軍忠ありし事、東西南北道のりなどが記してあった、というものである。『文禄清談』の成立年台ははっきりしないが、内閣文庫のものには「寛文7年仲春摂州大坂ニテ書写ノ軍畢」と奥書があり、少なくとも寛文7年(1667年)には多賀城碑つぼのいしぶみ呼ばれていたことは認められる。 『伊達治家記録』に、承応2年(1653年)7月21日伊達忠宗領内巡見帰城した記録がある。その後に、儒臣内藤閑斎の「封内山海之勝」という文書付載されている。その中には領内名所旧跡列挙され、その中には壺碑の名も見える。この文書延宝初年(1673年)頃のものであるまた、延宝年間(1673-1681年)に仙台藩文書として『仙台古城書上』がありその中に壺碑の記述もある。仙台藩内の文献としてはこれらがもっとも古いものである多賀城碑を壺碑と呼ぶことは、ほとんど発見当初からのようで、しかもかなり早い時期から全国的に認められたと考えられる林春斎の『国史館目録』の寛文9年(1669年)の9月17日の条に「長谷川信来リテ奥州壺ノ碑ノ刻文ヲ示シテ曰ク…」という記事がある。寛文の頃から仙台滞留していた俳人大淀三千風は、天和2年(1682年)『松嶋眺望集』を刊行しその中で壺碑の全文紹介している。これが、全国俳人文雅人々多賀城碑広く知らしめる役を果たした思われる京都儒医黒川道祐の『遠碧軒記』(延宝年間成立)の中で、壺の碑紹介されている。この文章井原西鶴の『一目玉鉾』『国花万葉記』『和漢三才図会』などの壺碑のもとになっている松尾芭蕉多賀城碑予備知識を『一目玉鉾』や『松嶋眺望集』から得ていたふしがあるこのように多賀城碑発見当初から壺碑と呼ばれていたが、歌枕つぼのいしぶみとの関係に疑い持たれるのは南部藩の坪石文対す関心生じて以降のことで、ほぼ18世紀入ってからと思われる。もっとも、地元における里人はこの石碑立石呼んでいたことが伝わっている。 当碑の発見後、『碑の写し』は古物珍重風潮により贈答品として用いられようにまでなるが、藩より「碑からの採拓」が制限されても版が起こされて摺られた『拓本』が量産され、その版木現存している。

※この「多賀城碑壺碑説」の解説は、「つぼのいしぶみ」の解説の一部です。
「多賀城碑壺碑説」を含む「つぼのいしぶみ」の記事については、「つぼのいしぶみ」の概要を参照ください。

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