国語教師からベストセラー著者へ
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「金田一春彦」の記事における「国語教師からベストセラー著者へ」の解説
1940年4月、東京府立第十中学校(現在の東京都立西高等学校)の国語教師となる(〜1942年)。本来は旧制高校で教える希望を持っていたが、専門分野の特殊性ゆえに叶わなかった。京助からは更なる学業継続を許されていたが、大学院生活に終止符を打つことを決意する。3月には、杉並の実家を出て東京市赤坂区表町の三上家に寄寓する。当時の教え子に実業家・堤清二(詩人・辻井喬)、文芸評論家・小田切進、作曲家・大中恩、建設大臣・水野清がいる。このころ、三省堂の依頼により『明解国語辞典』の標準アクセント表記を担当する。 1942年4月、日華学院に移り、終戦まで中国人に日本語を教える。中国人からの質問には「『知っている』の対義語は何故『知っていない』ではなく『知らない』なのか」など、あまり日本人にはない視点からの問いかけが多く、学問的に大いなる刺激を受けた。これと併行して、大西雅雄の世話で国際学友会に嘱託として勤務する。これらの勤めによる俸給の他、『明解国語辞典』による三省堂からの印税で潤ったため、11月6日、当時17歳の三上珠江と結婚。表町で所帯を持つ。 1944年4月、実践女子専門学校講師として国文法と国語史を担当する(〜1946年)。傍ら、寺川嘉四男の世話でフィリッピン協会に勤務する。フィリピン人やビルマ人やマレー人に日本語を教える。10月、空襲を避けて表町から東京都世田谷区北沢に転居する。近所の言語学者石黒修の勧めで大島正徳『現代実在論の研究』を読み、アメリカの新実在論者たちの言説を知って、哲学に対する従来の侮蔑を翻す。 1945年5月、日華学院が東中野の校舎が爆撃で焼失したため埼玉県秩父郡吉田町の寺に疎開する。8月15日、疎開先の東京都西多摩郡羽村(服部四郎の疎開先の隣家)で終戦を迎える。 1946年4月、文部省国語科嘱託となるも低報酬ゆえに生計立たず、三省堂の平井四郎常務に頼み『明解古語辞典』の編緝の仕事を貰う。同年10月、時枝誠記の世話で東大講師となる(〜1948年)。その後も1951年、1954年、1958年、1961年、1962年、1972年、1973年に東大講師を務めた。 1947年3月3日、浦高時代の級友館野守男(アナウンサー、NHK解説委員)の世話でNHK「ラジオ民衆学校」に出演し、日本語アクセントについて話す(永年にわたるNHKとの関係の始まり)。同年12月、NHK「ことばの研究室」の常任講師となる。 1948年3月、秋山雪雄の世話でNHKアナウンサー養成所講師となる(〜1977年)。書き言葉中心だった旧来の国語学に対し、話し言葉中心の国語学を構想する契機となる。 1949年4月、国立国語研究所研究員。同年2月、NHKアクセント辞典改訂に外部委員として参加する。 1950年2月、自ら監修に携わった三省堂の中学国語教科書『中等国語』が全国一の売上を記録する。 1951年7月、家主の復員に伴い世田谷区北沢の家から追い立てを受け、訴訟になっていたため、『中等国語』の印税を三省堂から前借りして、東京都杉並区西高井戸一丁目(現在の東京都杉並区松庵二丁目)に土地と家屋を購入し転居する。 1952年11月、ラジオ東京のアナウンサー養成所講師となる。当時の教え子に芥川隆行などがいた。同年12月、『中等国語』改訂版が日本全国の中学校の3分の1で採用される。 1953年、三省堂『明解古語辞典』を完成。国立国語研究所を解雇され、4月から名古屋大学助教授となる(〜1959年)。6時間を費やして東京から名古屋まで通勤。将来は東京大学の教授になることを夢見ていた。 1954年5月、国語学会幹事となる。 1956年1月、国際基督教大学講師となる。 1956年11月12日、言語学研究会設立総会で、評議員に選出される。 1957年1月、岩波新書から『日本語』を刊行し、ベストセラーかつロングセラーとなる。 1958年7月、東洋音楽学会理事となる。
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