固有値と固有ベクトル

数学の線型代数学において、線型変換の固有値(こゆうち、英: eigenvalue)とは、零ベクトルでないベクトルを線型変換によって写したときに、写された後のベクトルが写される前のベクトルのスカラー倍になっている場合の、そのスカラー量(拡大率)のことである。この零ベクトルでないベクトルを固有ベクトル(こゆうベクトル、英: eigenvector)という。この2つの用語を合わせて、固有対 (eigenpair) という。
固有値・固有ベクトルは線型変換の特徴を表す指標の一つである。
線形変換 T の固有値の一つを λ とすると、T の固有値 λ に関する固有ベクトルおよび零ベクトルは部分線形空間を形成し、固有空間 (英: eigenspace) という。
与えられた線型変換の固有値および固有ベクトルを求める問題のことを固有値問題 (英: eigenvalue problem) という。ヒルベルト空間論において線型作用素 あるいは線型演算子と呼ばれるものは線型変換であり、やはりその固有値や固有ベクトルを考えることができる。固有値という言葉は無限次元ヒルベルト空間論や作用素代数におけるスペクトルの意味でもしばしば使われる。
歴史
現在では、固有値の概念は行列論と絡めて導入されることが多いものの、歴史的には二次形式や微分方程式の研究から生じたものである。
18世紀初頭、ヨハン・ベルヌーイとダニエル・ベルヌーイ、ダランベールおよびオイラーらは、いくつかの質点がつけられた重さのない弦の運動を研究しているうちに固有値問題に突き当たった。18世紀後半に、ラプラスとラグランジュはこの問題をさらに研究し、弦の運動の安定性には固有値が関係していることを突き止めた。彼らはまた固有値問題を太陽系の研究にも適用している[1]。
オイラーはまた剛体の回転についても研究し、主軸の重要性に気づいた。ラグランジュがこの後発見したように、主軸は慣性行列の固有ベクトルである[2]。19世紀初頭には、コーシーがこの研究を二次曲面の分類に適用する方法を示し、その後一般化して任意次元の二次超曲面の分類を行った[3]。コーシーはまた "racine caractéristique"(特性根)という言葉も考案し、これが今日「固有値」と呼ばれているものである。彼の単語は「特性方程式 (英: characteristic equation)」という用語の中に生きている[4]。
フーリエは、1822年の有名な著書 ("Théorie analytique de la chaleur") の中で、変数分離による熱方程式の解法においてラプラスとラグランジュの結果を利用している[5]。スツルムはフーリエのアイデアをさらに発展させ、これにコーシーが気づくことになった。コーシーは彼自身のアイデアを加え、対称行列の全ての固有値は実数であるという事実を発見した[3]。この事実は、1855年にエルミートによって、今日エルミート行列と呼ばれる概念に対して拡張された[4]。ほぼ同時期にブリオスキは直交行列の固有値全てが単位円上に分布することを証明し[3]、クレープシュが歪対称行列に関して対応する結果を得ている[4]。最終的に、ワイエルシュトラスが、ラプラスの創始した安定論 (英: stability theory) の重要な側面を、不安定性の引き起こす不完全行列を構成することによって明らかにした[3]。
19世紀中ごろ、ジョゼフ・リウヴィルは、スツルムの固有値問題の類似研究を行った。彼らの研究は、今日スツルム=リウヴィル理論と呼ばれる一分野に発展している[6]。ヘルマン・アマンドゥス・シュヴァルツは一般の定義域上でのラプラス方程式の固有値についての研究を19世紀の終わりにかけて初めて行った。一方、アンリ・ポアンカレはその数年後ポアソン方程式について研究している[7]。
20世紀初頭、ヒルベルトは、積分作用素を無限次元の行列と見なしてその固有値について研究した[8]。ヒルベルトは、ヘルムホルツの関連する語法に従ったのだと思われるが、固有値や固有ベクトルを表すために ドイツ語の eigen を冠した最初の人であり、それは1904年のことである[9]。ドイツ語の形容詞 "eigen" は「独特の」「特有の」「特徴的な」「個性的な」といったような意味があり[10]、固有値は特定の変換に特有の性質というものを決定付けるということが強調されている。英語の標準的な用語法で "proper value" ということもあるが、印象的な "eigenvalue" の方が今日では標準的に用いられる[11]。フランス語では valeur propre である。
固有値や固有ベクトルの計算に対する数値的なアルゴリズムの最初のものは、ヤコビが対称行列の固有値固有ベクトルを求める手法として(ヤコビの提出したヤコビ法(電子計算機が発明されたときにフォンノイマンが発見したと思われたが実際はヤコビが既に述べていた)、ガウスによる行列の基本変形操作によるヘッセンベルグ形式への還元、などが知られていた)、1929年にフォン・ミーゼスが公表した冪乗法である。今日最もよく知られた手法の一つに、1961年に Francis と Kublanovskaya が独立に考案したQR法がある[12]。
定義
線形空間 V(有限次元とは限らない)上の線形変換 A に対して、次の方程式
別の例として、右のモナ・リザの画像の変形のような剪断変換の正方行列を考える:
境界が固定されたひもの定常波の振動数もまた固有値の例である。 ベクトル空間は、二次元や三次元の幾何的な空間だけとは限らない。さらに別の例として、ちょうど弦楽器における弦のような、両端が固定されたひもを考えよう(図2)。このひもが振動しているとき、ひも上の各原子が、ひもがぴんと張った時の位置(釣り合いの位置)から動いた距離(変位)は、ひもを構成する原子の個数分だけの次元をもつベクトルの構成部分として表すことができる。このひもが連続的な物体でできていると仮定しよう。このとき、ひもの各点の加速度を表す式(運動方程式)を考えると、その固有ベクトル(より正確には固有関数)は定常波となる。
定常波では、ひもの加速度とひもの変位が常に一定の比例係数で比例する。その比例係数が固有値である。その値は、角振動数を ω とすると、−ω2 に等しい。
定常波は時間とともに正弦的な振幅で伸縮するが、基本的な形は変わらない。
正定値と半正定値
- エルミート行列 A の固有値が全て正の場合に、その行列 A は正定値[注 1]であるという(正定値行列)。
- エルミート行列 A の固有値が全て非負の場合に、その行列 A は半正定値であるという(半正定値行列)。
この定義は対角化を用いることにより、二次形式の正定値、半正定値の定義と同値の関係であることが確認できる。
量子力学における固有値問題
量子力学においては固有値問題が次のような形で現れる。まず、系の状態は、「状態ベクトル」というもの(波動関数ともいう)で表現されると考える。そして、その状態ベクトルは、シュレーディンガー方程式に従って時間的に変化すると考える。このとき、系が時間的に変化しない定常状態(厳密に言うと、時間的に変化するものが状態ベクトルの位相に限定される場合)、シュレーディンガー方程式は、変数分離法によって、以下のようになる:
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固有値問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/17 10:01 UTC 版)
実対称行列の固有値および固有ベクトルを求める繰り返し計算手法においてもヤコビ法と呼ばれる解法がある(紛らわしさを避けるためにはヤコビ対角化法という)。 n {\displaystyle \ n} 次の実対称行列 A {\displaystyle \ A} について次のように G ( p , q , θ ) {\displaystyle \ G(p,q,\theta )} による相似変換、すなわちギブンス回転を実行することにより、非対角要素 a i j ( i ≠ j ) {\displaystyle \ a_{ij}(i\neq j)} の最大値 a p q {\displaystyle \ a_{pq}} が0となるようにする。 B = G T A G {\displaystyle \ B=G^{T}AG} これによって行列 B {\displaystyle \ B} の各要素は次のようになる。但し、 i , j ≠ p , q {\displaystyle \ i,j\neq p,q} である。 { b p p = a p p cos 2 θ + a q q sin 2 θ − 2 a p q sin θ cos θ , b q q = a p p sin 2 θ + a q q cos 2 θ + 2 a p q sin θ cos θ , b p q = b q p = 1 2 ( a p p − a q q ) sin 2 θ + a p q cos 2 θ , b i j = a i j , b p j = a p j cos θ − a q j sin θ , b q j = a p j sin θ + a q j cos θ , b i p = a i p cos θ − a i q sin θ , b i q = a i p sin θ + a i q cos θ {\displaystyle {\begin{cases}b_{pp}=a_{pp}\cos ^{2}\theta +a_{qq}\sin ^{2}\theta -2a_{pq}\sin \theta \cos \theta ,\\b_{qq}=a_{pp}\sin ^{2}\theta +a_{qq}\cos ^{2}\theta +2a_{pq}\sin \theta \cos \theta ,\\b_{pq}=b_{qp}={\frac {1}{2}}(a_{pp}-a_{qq})\sin 2\theta +a_{pq}\cos 2\theta ,\\b_{ij}=a_{ij},\\b_{pj}=a_{pj}\cos \theta -a_{qj}\sin \theta ,\\b_{qj}=a_{pj}\sin \theta +a_{qj}\cos \theta ,\\b_{ip}=a_{ip}\cos \theta -a_{iq}\sin \theta ,\\b_{iq}=a_{ip}\sin \theta +a_{iq}\cos \theta \end{cases}}} ここで、 a p q ≠ 0 {\displaystyle \ a_{pq}\neq 0} のとき b p q = 0 {\displaystyle \ b_{pq}=0} となる θ {\displaystyle \ \theta } は上式より tan 2 θ = − 2 a p q ( a p p − a q q ) {\displaystyle \tan 2\theta ={\frac {-2a_{pq}}{(a_{pp}-a_{qq})}}} から求められることがわかる。ギブンス回転をすべての非対角要素がほぼ0になるまで繰り返せば、実対称行列 A {\displaystyle A\quad } が対角化された形となるから、その対角要素が A {\displaystyle A\quad } の固有値となる。また、 A {\displaystyle A\quad } がk回変換された行列を A k {\displaystyle A_{k}\quad } 、k回目のギブンス回転を表す直交行列を G k {\displaystyle G_{k}\quad } と表せば、 A k = G k T A k − 1 G k = U k T A U k {\displaystyle A_{k}=G_{k}^{T}A_{k-1}G_{k}=U_{k}^{T}AU_{k}} ここに、 U k = G 1 G 2 G 3 ⋯ G k − 1 G k {\displaystyle U_{k}=G_{1}G_{2}G_{3}\cdots G_{k-1}G_{k}} となる。 A k {\displaystyle A_{k}\quad } のすべての非対角要素がほぼ0となったとき、 U k {\displaystyle U_{k}\quad } は固有ベクトルを並べた行列となっている。なお、ギブンス回転の繰り返し過程において、一度は0になった要素がその後の変換により0でなくなることもあるが、変換の繰り返しによって非対角項は0に近づいてゆく。 なお上記のように、ヤコビの対角化法は実対称(あるいは複素エルミート)の場合が最も良く知られていてその場合にしかないと思われがちであるが、非対称な行列に対するヤコビ法も在って研究もされていたが、QR法が登場してからは今日ではほとんど使われることはない。
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