和算の性格
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 14:41 UTC 版)
総じて和算は同時期の西洋数学と比較して、扱える問題の範囲はずっと狭く、論理的な厳密性ははるかに劣っていた。そして、若干の例外を除けば、和算の成果はほぼ西洋数学よりも遅れ、劣っていた。ただし、一定以上の高い水準に到達していたことは確かであり、また歴史的・文化的な背景から独自の発展経路を取った。 和算の円理は現代の解析学にあたる内容を扱うが、微分の概念はあまりはっきりと立ち現れてこない。これは、和算が「関数」および「グラフ」の概念を欠いていたことが一つの理由であろう。ただし、その萌芽的な概念がなかったわけではない。例えば、代数方程式の重解の考察にからんで多項式の微分が関孝和以来扱われている。しかし、関による定義は、f(x+e)をeについて整理したときの一次の項で、接線との関係は全く念頭にない。建部賢弘はこれを多項式関数の極値問題に応用している。彼は、数値的に微小な差分をとった時の主要項と、関の定義による導多項式が一致していることには気がついていたようである。また、久留島義太は極値問題を級数展開の視点で考察し、微分法の一歩手前まで来ている。同じ脈絡で、和田寧はフェルマーの方法、すなわち (f(x + e/2) - f(x - e/2))/e を計算し、e = 0 とする方法を発表している。 微分が発達しなかった為、和算では微積分の基本定理がなかった。したがって、微分の逆で積分を計算することも、部分積分を利用することもできなかった。複雑な関数の積分は、冪級数展開と級数の和の公式を巧みに用いた。この際、無限和の順序の交換は自明とされている。 和算の中心的な手法はある種の「代数」であって、特に関孝和や建部の頃は、図形の問題はピタゴラスの定理など、簡単な関係を用いて代数の問題に直して処理していた。算額に見られるような、互いに接する円や楕円の関係を求める問題は、松永良弼の頃から盛んになる。次の世代の安島直円は、三斜三円術(マルファッティの定理)などを発見し、これらの問題の系統的な解法の発展に寄与した。幕末には法導寺善が反転で円を直線に写して簡略化する手法を導入した。近年、和算で発見された幾何の美しい定理は(趣味的な観点からではあるが)注目を浴び、日本国外にも広く紹介されている。ただし、問題の処理にあたって代数計算や数値計算に頼る傾向が最後まで残った。作図問題などはあまり扱われず、公理的な幾何学などは全く受け入れられなかった(後述の、『幾何原本』に関する記述も参照)。幕末、海軍伝習所で教えた外国人教官の追憶によると、日本人は代数の理解は早かったが、幾何は中々進まなかったという。 和算には文化的相違より、西洋数学からみると変わった概念も多くあった。たとえば関孝和は実数解のない方程式を解くのに、問題の係数を置き換えて解の得ることのできる範囲(極数という)を調べる「適尽法」という方法をとった(これは後、方程式解の極大極小の理論へと発展する)。 和算における多くの成果は各流派の中で秘伝とされた。入門者は各段階を進むごとに謝礼を支払って、和算家の生計を支えた。この仕組みが整備されたのは、関流では山路主住の頃である。 しかし、例外的な事態は何度も起きている。例えば関流算術を学んだ久留米藩主・有馬頼徸は1769年(明和6年)に出版した著書『拾璣算法』において関流の秘伝を公開し、和算文化の向上に大きな貢献を果たした。また、幕末の長谷川寛監修、千葉胤秀編の『算法新書』(1830年(天保元年))では、初歩から最先端の結果までを丁寧に解説した。 日本で数学の専門家を輩出し得た社会的背景としては、貨幣経済の興隆の他、国絵図作成、新田開発などのための測量に対する需要があると推測される。また、暦学にも高度な数学が必要であった。関孝和は仕えていた甲斐国甲府藩における国絵図(甲斐国絵図)の作成に参加し、(実現はしなかったものの)改暦の準備のために授時暦の研究をしている。特に後者は、関孝和の数学研究の重要な動機である、との説もある。
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