和平の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 05:01 UTC 版)
日中戦争の全面化の過程において、日本は中国にさまざまな威圧を加えた。7月11日、第1次近衛内閣が事件を「北支事変」と称し、政府声明を発表したのも、その現れだったのである。その日の夜9時すぎ、近衛文麿首相は、政界のみならず財界、マスメディアの人士を100名近くも首相官邸に招待し、3回に分けて彼らに協力を要請し、挙国一致の姿勢を示して中国を圧伏しようとした。近衛はその場で「中国に反省を促すために派兵」すると述べた。派兵の決定そのものが心理的な威圧をねらったものだったのである。 一方、日中戦争の全面化に対し、交渉を通じた事態収拾の試みがなされなかったわけではなかった。そのなかには、近衛首相自身の人脈によるものもあった。たとえば、近衛は政界浪人の秋山定輔を仲立ちとして、宮崎滔天の子息宮崎龍介(当時、衆議院議員)を中国に派遣して、蔣介石と直接連絡をとろうとした。宮崎は7月23日に東京を出発したが、陸軍憲兵隊に情報が漏洩し、翌24日神戸で憲兵隊に拘束されてしまい、この工作は失敗に帰している。 近衛文麿自身が南京に渡る案もあった。7月12日、石原完爾は内閣書記官長の風見章に、近衛首相が南京に乗り込み、蔣介石と直談判してほしいと申し入れた。これを聞いた近衛は体調不良であったにもかかわらず、看護師を引き連れてでも南京に行きたいとの希望を示したという。しかし、風見書記官長は、仮にもし首脳同士が合意に達しても日中両軍ともにその統制に関しては信を置くことができず、そのため合意が実行できないという可能性もあり、そうなれば事態はいっそう紛糾の度を深めるであろうとの判断を示し、首脳会談の実施に反対した。近衛は風見の意見に同意し、代わりに広田弘毅外務大臣の南京派遣を提議した。風見は広田にその旨を打診したものの、結局はうやむやになってしまった。 西園寺公望の孫で近衛の側近であった西園寺公一も7月下旬に上海に渡り、蔣介石一派に近い浙江財閥系の要人と接触したが、事変が上海に飛び火したことにより、成果を挙げることができなかった。
※この「和平の試み」の解説は、「船津和平工作」の解説の一部です。
「和平の試み」を含む「船津和平工作」の記事については、「船津和平工作」の概要を参照ください。
和平の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 08:51 UTC 版)
詳細は「ティグレの和平プロセス(英語版)」を参照 主要な組織の間で、和平交渉と調停についていくつかの提案がなされた。 2020年11月9日頃、デブレツィオンはアフリカ連合(AU)に停戦、和平交渉の仲介を要請したが、アビィ首相はこれを拒否した。11月25~27日には、AU議長シリル・ラマポーザによって任命されたアフリカ諸国の3人の元大統領が、仲介を目的にエチオピアを訪問した。 この時代表団は、アビィ首相とTPLFの代表に面会した。2020年12月20日、ジブチにおいて東アフリカ諸国の政府首脳による緊急の政府間開発機構の会合が開かれ、この中でエチオピアの憲法秩序を守り、さらにティグレにおける人道支援を支援するとの声明が出された。 2021年2月19日、TPLFは和平交渉を求め、その中で交渉に必要な8つの前提条件を提示した。2月20日、大ティグレ民族議会(Baytona)、ティグレ独立党(TIP)、サルセイ・ウェヤネ・ティグレ(SAWET)の3政党は、TPLFによるものとほぼ同じ内容の要求を国際社会に提示した。 2021年3月11日、米大使ゲータ・パシは、国際社会とエチオピア政府による人道支援を行うよう要請した。2021年8月初旬、スーダン政府が和平の仲介を申し出たが、スーダンのアル・ファシャガをめぐる両国間の国境紛争が続いていたため、エチオピア政府は申し出を拒否した。 7月と8月にケニア、ニジェール、チュニジアの3つのアフリカ諸国と、1つの非アフリカ国家、セントビンセントおよびグレナディーン諸島からなる「A3+1」という調停グループが結成された。これは「アフリカの問題はアフリカ内で解決する」という精神に基づくものであった。A3+1は声明の中で、「アフリカ連合の紛争解決システムを活用し、エチオピア国内に生じた深刻な亀裂を修復する」よう求めた。
※この「和平の試み」の解説は、「ティグレ紛争」の解説の一部です。
「和平の試み」を含む「ティグレ紛争」の記事については、「ティグレ紛争」の概要を参照ください。
- 和平の試みのページへのリンク