インディアンのその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/09 15:15 UTC 版)
「ヤマシー戦争」の記事における「インディアンのその後」の解説
戦争の初めの1年間で、ヤマシー族は殺されたり奴隷にされたりして、その人口の約4分の1を失った。残った者は、17世紀に本拠地としていた南のアルタマハ川へ移動した。しかし、そこでも安全とは言えず、間もなく逃亡を始めた。ヤマシー族は部族として常に多民族の混交であり、戦争後は幾つかの派に分かれていった。残った者の3分の1はローワー・クリーク族の所に定住することを選び、結果的にクリーク族同盟の一部となった。残りの大半はアパラチコラ族の避難民と合流し、1715年夏にフロリダのセントオーガスティンの近くに移住した。サウスカロライナとヤマシー族個々に和平の試みが何度か行われたが、紛争状態はその後何十年も続いた。スペイン領フロリダのヤマシー族はその内に病気や他の原因で勢力を弱めた。残った者はセミノール・インディアンの一部となった。 ヤマシー戦争後は、様々な原始クリーク族、マスコギ語族が結びつきを強めた。オーチェス・クリーク族がアパラチコラ族、アパラチー族、ヤマシー族やその他の残存勢力と一緒になって、チャタフーチー川の辺りを再占領した。これはヨーロッパ人にとっては、新しいインディアンの特定を必要とし、また新しい名称も必要となった。スペイン人にとっては、それは17世紀の「アパラチコラ植民地」の再生であった。イギリス人には、ローワー・クリークという呼び方が一般になった。 カトーバ族は北部のいわゆるピードモント諸族の残党を多く吸収した。チェロー族、コンガリー族、サンティー族、ピーディ族、ワックスホー族、ウォーターリー族、ワッカモー族、およびウィニャー族などである。これら部族はその後も比較的独立した形に留まってはいた。タスカローラ族が北のイロコイ族に加わることで去った後は、ヤマシー戦争の中から生まれたカトーバ同盟がピードモント地区で最も強力なインディアンとなった。1716年、カトーバ族がサウスカロライナと和平を結んだ1年後、サンティー族やワックスホー族が数名の開拓者を殺した。サウスカロライナ政府はカトーバ族に、「彼らを襲って撲滅する」ことを求め、カトーバ族は実行した。生き残ったサンティー族とワックスホー族の者は奴隷にされるか「養子」にされるかで、カトーバ族に吸収された。チェロー族はその後も敵対的な姿勢を続けた。
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