和平と王制の打倒
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/14 14:31 UTC 版)
「ロクタントラ・アンドラン」も参照 2005年2月1日、ギャネンドラ国王は全権を掌握し、王政復古で絶対君主制に回帰して親政を開始したことでアメリカ合衆国、イギリス、インドから軍事援助を中止され、中華人民共和国から武器支援を獲得した。同年、マオイスト派は国会に勢力を持っていた7党連合とインドで会談し、十二か条の合意を達成、ともに国王の専制政治と闘うことで合意。 2006年4月、国王の独裁に抗議する民主化運動(ロクタントラ・アンドラン)が高まり、マオイスト派はカトマンズを中心に抗議行動を行う。この運動により国王は独裁制を放棄し、国王としてのあらゆる特権を失った。元首は首相が兼任することになった。「王国」という国号も廃止され、王制は形だけのものとなった。 11月21日、マオイスト派は政府との間で無期限停戦と和平を誓う包括和平協定に調印。人民戦争は終結した。両軍は国連の停戦監視のもとに置かれている。この時、政府との間に「制憲議会」を設ける約束が締結された。 2008年4月10日の制憲議会選挙で同党は220議席を獲得し第一党となった(後に内閣指名の議席が加わり、229議席になった。)。プラチャンダ自身、カトマンズの第10小選挙区に立候補し、当選している。しかし、党として過半数の議席が確保できなかったので他党との連立を模索せざるを得なかった。 5月28日の制憲議会で宿願の王制廃止と連邦民主共和制の採択が議決される。 また、制憲議会での議論の結果、元首である大統領の地位は象徴的なものとし、首相に政治の実権を集中することが決められた。 5月31日、「毛派に対するメディアの批判は許さない」という趣旨の発言をして物議をかもした。主要メディアは呼称を「プラチャンダ」から本名「プシュパ・カマル・ダハル」に切り替えて抵抗の意を表した。
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