宇垣外交とは? わかりやすく解説

宇垣外交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:48 UTC 版)

宇垣一成」の記事における「宇垣外交」の解説

宇垣工作」も参照 組閣流産から半年後の昭和12年1937年7月7日盧溝橋事件勃発日中戦争突入した近衛文麿首相事変初期段階での収拾失敗しいわゆる近衛声明(「爾後国民政府対手トセズ」)を発する及んで泥沼化懸念されていた。事態憂慮していた宇垣昭和13年1938年5月改造内閣外務大臣として入閣請われると、日中和平交渉開始や「対手とせず」方針撤回条件就任子分杉山陸相後任板垣陸相使い中国本土満州へ進攻邁進した。早々に近衛声明再検討表明し駐日英国大使クレーギー・駐中英国大使カー英語版)などを介し孔祥熙国民政府行政院長らと極秘接触中国側からの現実的な和平条件引き出しにも成功している(すべて外務省外交交渉)(宇垣工作)。しかし近衛首相蔣介石下野など和平条件吊り上げ姿勢見せ近衛声明維持表明するなどした。また陸軍外務省和平工作妨害する意図もあっていわゆる興亜院設置働きかけ対中外交主導権外務省から奪うことを画策近衛賛成した。こうして、近衛首相からも梯子外された形となり、外相辞任した。なお、在任中に発生したソ連との国境紛争張鼓峰事件陸軍停戦交渉によって停戦させている。在任中には牛場信彦いわゆる革新派とされる若手外交官宇垣宅を訪問して対中強硬論革新派リーダー白鳥敏夫次官就任といった外交刷新訴えるといった「事件」も発生しているが、省内のこうした路線対立宇垣指導力発揮困難なものにしていた。以上のように首相外務省支えが無い中で、さしたる成果あげられないまま辞任至ったが、目下課題実務的処理する堅実な姿勢見せた宇垣国民政府から引き出した条件は後の日米交渉比べてはるかに有利なのであるのはもちろん、交渉ルート確実に国民政府中枢通じた「筋の良い」ものであったこと、相互信頼関係存在などから、その後様々な形行われた日中和平の試みなかでも最も実現性高く貴重なものであったとの評価もある。満州事変以来日本外交厳しく批判していた外交評論家清沢洌は宇垣外交を高く評価、「日本久々に外交持った外交官ではない人物によって」と評したとされる

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