宇垣閥
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長州閥の領袖である田中義一の元で権力を蓄えた宇垣は、田中派を引き継ぐ形で陸軍内の一大派閥を形成し、1920年代の陸軍の主要ポストを独占した。宇垣派と目された陸軍中央幕僚としては、以下の人物が挙げられる。 金谷範三(陸士5期、参謀総長) 畑英太郎(陸士7期、陸軍次官) 南次郎(陸士6期、陸軍大臣、朝鮮総督) 阿部信行(陸士9期、首相、陸軍大臣、朝鮮総督) 二宮治重(陸士12期、文部大臣、参謀次長) 杉山元(陸士12期、元帥、陸軍大臣、参謀総長、教育総監) 小磯國昭(陸士12期、首相、陸軍次官、朝鮮総督) 建川美次(陸士13期、参謀本部第一部長) また、同期の鈴木荘六(参謀総長)、白川義則(陸軍大臣)も宇垣に協力的であった。彼らはいずれも長州出身者ではなく、菅野尚一、松木直亮といった長州出身者は有力ポストについていない。このような長州閥から宇垣閥への改造は、田中の後継者と目された津野一輔の死後本格化したとされる。 1920年代中盤からは、永田鉄山ら一夕会のメンバーを中心とする中堅幕僚からの過激な突き上げの抑制に苦心する。一夕会メンバーは長州閥の流れを汲む宇垣閥による陸軍の支配をよく思っておらず、会員で課長クラスの要職を独占することで、徐々に権力を奪っていく。1931年の犬養内閣の組閣時には、宇垣の推す阿部信行が陸相になる手筈であったが、永田から政友会の有力者小川平吉へ、鈴木貞一から森恪への工作が功を奏し、荒木貞夫(陸士9期)を陸軍大臣に就くこととなる。田中・宇垣閥と対立していた上原閥の流れを汲む佐賀閥系に属する荒木は、参謀総長に閑院宮載仁親王、参謀次長に真崎甚三郎を据えたほか、小畑敏四郎作戦課長、山岡重厚軍務局長、山下奉文軍事課長など起用するなど、陸軍中央の要職から宇垣閥を一気に排除し、陸軍内部の勢力図を大きく書き換えることとなる。1936年の二・二六事件後には、皇道派の粛清の巻き添え食らう形で、南、阿部、建川が予備役に編入されるなど、さらに勢力を弱めることとなった。
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