宇垣内閣の組閣を断念させる
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「石原莞爾」の記事における「宇垣内閣の組閣を断念させる」の解説
昭和12年(1937年)に廣田内閣が総辞職した。これにより、次期首相にはかつて軍縮に成功し、軍部ファシズムの流れに批判的であり、また中国や英米などの外国にも穏健な姿勢を取る宇垣一成大将が俄然有力視され、ついに大命降下される運びとなった。 しかし、石原莞爾参謀本部第一部長心得を中心とする陸軍中堅層は、軍部主導で政治を行うことを目論んでおり、宇垣の組閣が成れば軍部に対しての強力な抑止力となることは明白であったので、なんとしてもこの宇垣の組閣を阻止しようと動いた。石原は自身の属する参謀本部を中心に陸軍首脳部を突き上げ、寺内寿一陸軍大臣も説得し、宇垣に対して自主的に大命を拝辞させるように「説得」する命令を寺内大臣から中島今朝吾憲兵司令官に命じてもらった。中島中将は宇垣が組閣の大命を受けようと参内する途中、宇垣の車を多摩川の六郷橋で止めてそこに乗り込み寺内大臣からの命令であると言い、拝辞するようにと「説得」した。だが、宇垣はこれを無視して大命を受けた。 しかし、石原は諦めず、今度は軍部大臣現役武官制に目をつけて宇垣内閣の陸軍大臣のポストに誰も就かないよう工作した。宇垣の陸軍大臣在任中、「宇垣四天王」と呼ばれたうちの2人、杉山元教育総監、小磯国昭朝鮮軍司令官への工作も成功し、誰一人として宇垣内閣の陸軍大臣を引き受ける者はいなかった。こうして宇垣は陸軍大臣を得られず、やむなく組閣を断念し、石原の策は見事に成功した。だが、石原は後年、宇垣の組閣を流産させたこのときの自分の行動を人生最大級の間違いとして反省している。石原の反省は、宇垣の組閣断念の後に政治の流れが、石原が最も嫌う日本と中国の全面戦争、石原が時期尚早と考えていた対米戦争への突入へと動いていったことによるものである。
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