北朝鮮の太極旗
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朝鮮民主党の結党大会(1945年11月)で、連合国4か国の国旗(左から順に英・米・ソ・華)と共に掲げられた太極旗(中央) 北朝鮮臨時人民委員会成立慶祝大会(1946年2月)で、連合国(英・華)国旗や金日成の肖像画と共に掲げられた太極旗 朝鮮人民軍の創設記念式典(1948年2月)で、金日成の肖像画と共に掲げられた太極旗 5・1節(メーデー)の記念式典(1948年5月)で、スターリン・金日成の肖像画やソビエト連邦の国旗と共に掲げられた太極旗 「朝鮮独立の象徴」であった太極旗は、ソ連軍の監督下に置かれた北朝鮮(38度線以北の朝鮮地域)でも朝鮮民主主義人民共和国の建国直前まで使われた。 日本の降伏宣言(玉音放送)直後、北朝鮮各地では朝鮮建国準備委員会(後の朝鮮人民共和国)の地方組織(人民委員会)が設立され、光復実現の象徴として太極旗を使用していた。その後、北朝鮮は全域がソ連軍の占領下に置かれたが、占領行政組織として1945年10月に設置されたソビエト民政庁は北朝鮮各地の人民委員会を後援する形で占領行政を進めたため、太極旗は朝鮮人の行政旗として使われ続けた。モスクワ三国外相会議(同年12月)の取り決めで、朝鮮は米・英・ソ・中による最長5年の信託統治を経た上で最終的に南北を統一する単独政府を樹立して独立する予定とされた。そのため、1946年2月8日に社会主義者達による自治組織・北朝鮮臨時人民委員会が樹立されても、太極旗は「朝鮮の旗」として人民委員会で使用され続けた。ただし、人民委員会や北朝鮮人民委員会も太極旗のデザインについて規範を定めなかったらしく、残されている写真資料には様々なバリエーションの太極旗が写っている。 一方、信託統治の実施方法を決めるために1946年1月から開かれた第一次米ソ共同委員会は、信託統治受け入れに反対(反託)する李承晩、金九ら大韓民国臨時政府系の民族主義者達の扱い等を巡って紛糾し、同年5月に無期限休会となった。これを受け、ソ連当局は信託統治を経て統一政府を樹立する従来の国際合意を無視して北朝鮮人民委員会による北朝鮮単独の政府樹立を目指すようになり、国旗についても1947年夏に新国家樹立と共に新しい旗を創るよう駐北朝鮮ソ連軍から北朝鮮労働党へ指示が与えられた。ソ連軍から呼び出しを受けた党指導部の金枓奉は、ソ連軍将校に対し既存の太極旗を国旗として支持する旨を述べ、旗が持つ意味について細かい説明を行った。だが、ソ連軍人にとって金枓奉が説明した旗のデザインの基である中国哲学は「中世の迷信のようなもの」に過ぎなかったため、ソ連軍は数か月後に新国旗のデザインに関する指示を北朝鮮労働党へ出し、新しい朝鮮の国旗(藍紅色旗)が完成した。翌1948年に金枓奉は『新しい国旗の考案と太極旗の廃止について』という書籍を刊行し、藍紅色旗を「優れた発展を成し遂げていく幸せな国」の象徴であるとする一方、太極旗を「非科学的で迷信がかっており、不必要なまでの難解さと多様な要素が国の発展を妨げる可能性がある、国旗にふさわしくない旗」として、新しい国旗を制定する理由づけを行なった。北朝鮮における国旗制定に関しては具体的な情報がほとんど入らず、一連の出来事が起きた日付については不明である。だが、北朝鮮人民会議が1948年4月に藍紅色旗を新国家の国旗として制定し、同年7月8日に使用する旗を太極旗から藍紅色旗へ切り替えた ことは韓国の報道機関の調査で分かっている。そして朝鮮民主主義人民共和国建国(1948年9月9日)以降、北朝鮮で太極旗は一切使用されていない。 なお、北朝鮮政府は「国粋主義化」(満洲派の権力独占に伴う「唯一思想体系」の確立)とその過程における金枓奉の粛清を経て、北朝鮮の国旗が制定された歴史的経緯の説明文から「ソ連の影響」を消し去っている。北朝鮮の国営ポータルサイト『ネナラ』は「国旗にまつわる話」として、「北朝鮮人民委員会が1948年2月初旬に新国旗の原案を完成させたが、金日成の指導によって赤い星の追加やデザイン修正がなされ、今の形が誕生した」というエピソードを紹介し、「金日成の細やかな指導」を強調している。一方で、国旗が制定された経緯や日付、独立前に金日成が太極旗を使っていた事実については言及していない。
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