北朝鮮の奇襲攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 03:39 UTC 版)
詳細は「国境会戦 (朝鮮戦争)」を参照 1950年6月25日午前4時(韓国時間)に、北緯38度線にて北朝鮮軍の砲撃が開始された。宣戦布告は行われなかった。30分後には朝鮮人民軍が暗号命令「暴風」(ポップン)を受けて、約10万の兵力が38度線を越える。また、東海岸道においては、ゲリラ部隊が工作船団に分乗して後方に上陸し、韓国軍を分断していた。朝鮮人民軍の動向情報を持ちながら、状況を楽観視していたアメリカを初めとする西側諸国は衝撃を受けた。 前線の韓国軍では、一部の部隊が独断で警戒態勢をとっていたのみで、農繁期であったこともあり、大部分の部隊は警戒態勢を解除していた。また、首都ソウルでは、前日に陸軍庁舎落成式の宴会があったため軍幹部の登庁が遅れて指揮系統が混乱していた。このため李承晩への報告は、奇襲から6時間も経ってからとなった。さらに韓国軍には対戦車装備がなく、ソ連から貸与された当時の最新戦車T-34戦車を中核にした北朝鮮軍の攻撃には全く歯が立たないまま、各所で韓国軍は敗退した。 開城・汶山方面の第1師団、春川・洪川方面の第6師団、東海岸の第8師団は奇襲攻撃を受けながらも健闘した。特に第6師団は北朝鮮軍第2軍団の春川攻略を遅らせ、これによって6月25日中に春川を占領し、漢江沿いに水原に突進して第1軍団とともに韓国軍主力をソウル周辺で殲滅するという計画を大きく狂わせることになった。マシュー・リッジウェイは「良く戦闘の準備をしていたこれら少数の韓国軍部隊のすさまじい勇気がなかったならば、1日ないし2日の貴重な時間が失われ、被害はさらに甚大なものとなったであろう。」と評している。 連合国軍総司令官マッカーサーは日本に居り、日本の占領統治に集中していた為、朝鮮半島の緊迫した情勢を把握していなかった。奇襲砲撃開始を知ったのは1時間余り経った25日午前5時数分過ぎだった。 トルーマン大統領も、ミズーリ州にて砲撃から10時間も過ぎた現地時間24日午後10時に報告を受けた。ただちに国連安全保障理事会の開会措置をとるように命じてワシントンD.C.に帰還したが、トルーマンの関心は、当時冷戦の最前線とみなされていたヨーロッパへ向いていた。まずはアメリカ人の韓国からの出国、および韓国軍への武器弾薬の補給を命じただけで、すぐには軍事介入を命じなかった。2日後には台湾不介入声明 を撤回して海軍第7艦隊が中立化を名目に台湾海峡に出動した。
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