加悦・算所とは? わかりやすく解説

加悦(かや)・算所(さんじょ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 00:47 UTC 版)

加悦谷祭」の記事における「加悦(かや)・算所さんじょ)」の解説

ちりめん街道所在する天満神社氏神とする。天満神社は、丹波道主の子とされる細目倉彦が菅原道真仕え道真大宰府配流された後に丹後戻り中郡二箇に天神社建てて道真祀ったことを発祥とする。のちに四辻天神ヶ丘に移され、さらに1328年嘉暦3年)に加悦宮野移り1586年天正14年)に安良山城有吉将監らによって現在地奉遷された。加悦町域を見下ろす天神山山頂一帯境内とし、一帯が府によって「天満神社文化財環境保全地区」に指定されている。 加悦谷祭では、両日とも神輿や芸屋台午後から区内巡行し、宵宮天満神社から算所にある御旅所まで、本宮では御旅所から天満神社までを巡行する「神幸祭」「還幸祭」の形をとる。本宮では、例年15時30分頃に旧加悦町役場前に神輿神楽、芸屋台がすべて一堂に会する祭礼中核神輿で、神社に残る古い神輿底板には、1762年宝暦12年)に京の二条通堺町角の職人の作による神輿寄進された旨が記されている。神輿137段の急傾斜石段昇り降りする神事は、加悦谷地域なかでもとくに知られたもので、巡行路は後年に拓かれた幹線道路ではなく近世初期整備されたと推定される旧街道沿って、細い道を幾度も折れ曲がる複雑な行路をとり、祭が誕生した江戸時代面影残している。 祭礼行列では、チリリン棒が先頭務める。チリリン棒とは、引きずって歩くことで音を出すのことで、かつてはチリリン棒がわずかでも波打てば行列もそれに従って波打って歩かねばならないとされていた。 チリリン棒の後には、各町が1本ずつ出す幟(ノボリ)が続く。加悦区、算所区で各5本あわせて10本の幟は、行列止まっているときには民家立てかけおかれることが多いが、その際には算所加悦の町の位置する通り並べると定められている。御旅所に向かう宵宮では算所区が先になり、天満神社に戻る本宮では加悦区が先となる決まりで、神主とともに歩く地区総代宵宮では算所総代が先を歩き本宮では加悦総代が先を歩くなど、一貫した決まりがある。その理由は、宵宮では算所人々が神を案内して早く連れていくためで、本宮では加悦人々早く神を連れ帰りたいがためであるという。 幟の後には、神楽太鼓神社役員町内役員が続く。神楽2班あり、獅子頭屋台納めて巡行行列に加わる班とは別に1班は「カマド清め」や「所望舞」、役員自宅などでの「役舞」に家々巡り御旅所天満神社などに巡行到着して奉納が行われるときにのみ合流するまた、同じ頃、算所では芸屋台家々巡って囃子披露する祭礼行列参加する獅子頭は雌で、後から来る神輿乗る男神早く来るように誘うという。天満神社菅原道真祀ることから男性神の社とされ、この祭礼行列には男性神惹きつけようとする要素随所みられる神輿先導を担う2人が持つトッケツは、丸太先に大きな鈴を付けたもので、この鈴が女性意味する神輿停まる予定地にはあらかじめ四角錐砂山御幣のついた刺し置かれトッケツはこの山を崩すように丸太突き立て大きく振り、音を出して神輿を呼ぶ。神輿停まる予定地を神輿御旅といい、神社の前や町の境目比較大きな商家などがあった場所10カ所程度定められ、仮に空き地となってその場所は変わらず新たに越してきた住民神輿御旅引き継ぐトッケツは、神輿御旅に来ると音を鳴らして神輿呼び神輿到着しようかという頃に次の神輿御旅に向かう。神輿御旅となっている家では、家人玄関先神輿出迎え神酒供え神主祝詞をあげている間に、神輿担ぎ手に酒食振る舞い労をねぎらう2019年平成31年)の祭礼行列では、神主神社役員町内役員神楽神輿3基、屋台3基が巡行し、数年1度のみ巡行する下之町の子ども芸屋台稲荷山」では、約50名が囃子方引手分担した祭事担当地区団体以下の通り神輿渡御 - 加悦区、算所神楽舞二頭舞) - 加悦神楽保存会 かつては加悦橋本町神楽組を担った橋本町独自の芸能だったが後継者不足で断絶しその後加悦全体有志募り再興したのである。 「ツルギ(剣)」「スズ(鈴)」「ランシ(乱獅子)」の3曲があり、それぞれ組み合わせた舞を行う。 囃子屋台三輪山巡行 - 加悦上之町 子ども芸屋台稲荷山巡行 - 加悦下之町老朽化のため毎年巡行せず、おおむね3年1度のみ巡行参加する。) 子ども芸屋台岩戸山巡行 - 加悦花組老朽化のため毎年巡行せず、2019年休業。) 子ども芸屋台蛭子山」巡行 - 加悦中市老朽化のため毎年巡行せず、2019年休業。) 子ども屋台 - 算所囃子屋台天神山巡行 - 算所昭和期一時途絶え楽譜もなかったため、1987年昭和62年)に後野など他地区から録音テープ借りるなどして不明な部分補い復活した。笛・三味線太鼓・鉦で奏でられる囃子10曲あり、うち元から算所区に伝わっていたのは4曲である。2019年現在屋台は、1896年明治29年)に製作され、芸を行う替わり御神体天神人形載せて巡行し、巡行行わない年は、御神体算所公会堂飾られる。これを町飾り称し、芸屋台巡行しない他の町でも、それぞれの町内通り面した民家一室に、通りから見えるように御神体を飾る。 芸屋台には、かつては後野地区同様に子ども歌舞伎があったと伝えられる地元の子どもらによる子ども歌舞伎であったという説のほか、福知山から子ども歌舞伎購入していたという説がある。子ども役者購入していたのは加悦区で芸屋台をもつ4町すべてで、1959年(昭和34年)または1960年昭和35年)頃までとみられるウィキメディア・コモンズには、天満神社加悦天満宮に関するカテゴリあります祭礼間中、幟が立った神社天満神社拝殿より本殿を臨む(2019年4月27日加悦谷祭 供物 神輿渡御 子ども芸屋台稲荷山出庫後の芸屋台車庫

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