函館山麓の坂道とは? わかりやすく解説

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函館山麓の坂道

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 15:25 UTC 版)

函館西部地区の町並み」の記事における「函館山麓の坂道」の解説

谷地頭切通 函館市電青柳町停留場から谷地頭停留場にかけての電車通り坂道1878年明治11年)に尻沢辺谷地埋め立てその時にできた切通しができて谷地頭発展の基となった電車配した観光ポスター映画CMロケ等によく使われる青柳青柳町へ向かう坂ということからこう呼ばれる。坂の途中にある青柳小学校校舎函館大火復興校として1935年昭和10年)に建てられたもの。 あさり坂 市宝来町停留場からまっすぐ登っていく坂、アサリ貝殻がたくさ出たことからこの名が付いた。ここでジョン・ミルンエドワード・S・モース貝塚発掘している。坂の上石川啄木居宅跡がある。啄木函館滞在は4か月ほどだが、最も充実していたという。「函館青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢ぐるまの花」の歌もここの情景考えられる護国神社坂 「汐見坂」ともいう。昔は「招魂社の坂」や「倒産坂」という呼び名もあった。この坂に面して門を立てるとばちが当たってかまどがつぶれるといわれた由来がある。グリーンベルトには高田屋嘉兵衛銅像立っている。 谷地坂 谷地頭に向かう坂ということからこの名がある谷地頭は、かつて行楽地として当時市民親しまれた場所である。 南部坂 江戸時代蝦夷地幕府直轄地になった際、北方警備命じられ南部藩陣屋南部陣屋)があったことからこの名が付いた。かつて、この坂の入口デパート丸井今井函館店があったため、「丸井さんの坂」とも呼ばれた。旧丸井今井建物は現在、「函館市地域交流まちづくりセンター」として利用されている。坂の頂上には函館山頂に向かう函館山ロープウェイの駅がある。 二十間坂 かつては大工町坂」とも呼ばれた明治12年1879年)の大火のあと、防火帯として坂の拡幅が行われ、その幅が20間(約36m)あったことからこの名前が付いた明治33年1900年)に建設され函館山要塞大砲を運ぶための道路として使われた。 大三坂 昔、木下という人が住んでいたので、この坂は「木下の坂」と呼ばれていたが、その後大三」という屋号郷宿ができたので大三坂と呼ぶようになった。この大三には、箱館奉行所に公用で来る人が泊まったという。昭和62年1987年)に「日本の道百選」に選ばれた。坂の上には、函館ハリストス正教会復活聖堂カトリック元町教会函館聖ヨハネ教会建っている。 チャチャ(爺々)登り 函館では珍しいアイヌ語由来地名大三坂の上にあり、ハリストス正教会横から函館山向かって伸びる急坂で、この坂を登るとき、だれもが老人のように腰をかがめることからこの名前が付いた老人のことをアイヌ語で「チャチャ」と呼ぶ。 八幡坂 かつて、この坂の上函館八幡宮があったことからこの名前がある。函館八幡宮1878年明治11年)の大火焼失現在地である谷地頭移転したが坂に名前が残った。まっすぐ港に向かう坂で、真正面連絡船桟橋跡と旧青函連絡船函館市青函連絡船記念館摩周丸見えるので、人気観光スポットである。八幡坂の上には北島三郎辻仁成出身校である北海道函館西高等学校がある。 日和坂 港が一望でき、天気を見る(日和見)ことが出来る坂ということでこの名がある坂の上には保延元年1135年建立北海道最古といわれる船魂神社がある。義経伝説を持つ神社でもある。 基坂 かつて函館から札幌に向かう札幌本道起点であり、里程を図る道路元標置かれていたことからこの名前が付いた坂の上元町公園一帯過去箱館奉行所、開拓使開拓使函館支庁函館県庁、渡島支庁がおかれ、行政の中心地であったことから、「御役所坂」「御殿坂」とも呼ばれた東坂 かつて浄玄寺(現、真宗大谷派函館別院)があり、「東(本願寺)の坂」と呼ばれ、その名が残った途中函館中華会館がある。 弥生弥生町にあった坂だからという説と、坂の途中弥生小学校にちなんだという説。1934年昭和9年)の大火後に春のような繁栄願ってつけられたという説があり、坂の名が先か後かは判然としない前出し弥生小学校は、石川啄木臨時教員をしていた。 常盤坂 江戸時代にこの坂の上屋敷があり、そこに奥州の「義経腰掛」という銘木の種を得たという大木があった。それで常盤にちなんでこの名が付いた。この坂の麓の方は別名「見返り坂」と呼ばれる。そのわけは、この坂の下にかつて遊郭があり、楽しんだ客が名残惜しんで見返り見返り帰ったことにちなむ。また、坂の上には芝居小屋があり、「芝居町の坂」とも呼ばれたことがある姿見坂 かつて、この坂の上に、江戸吉原模した遊郭があったことにちなんだ名前である。この一帯茶屋町呼ばれ遊女たちの艶姿見られたことでこの名がある。この遊郭明治4年1871年大火焼失し遊郭蓬来町にうつった。 幸坂 坂の上神明社があったので、もともとは「神明坂」と呼ばれていた。町の名が幸町になったので、坂の名前多幸祈ったのかこの名前になった。 千歳諸説あるが、近くにあった千歳の松由来するといわれる1879年明治12年)の大火はじめとして大火のごとに街区整理されたため、坂道変遷している。この坂のあった場所も、かつては神楽坂」という細い坂があったが、大火後区画整理でこの坂になった千歳坂の名も、この頃から使われだした。 船見坂 港に出入りする船がよく見られたのでこの名が付いたかつては称名寺まで通じていたため「称名寺の坂」とも呼ばれる魚見坂 西部地区の一番西にある坂。坂の入口市電函館どつく前停留場がある。山背泊に来る魚群を見ることからこの名が付いた。かつてこの一帯台町呼ばれ、その由来安政3年1856年)に弁天台場築かれことによる。それでこの坂を「台町の坂」と呼ばれたこともあった。坂を登った先には、高龍寺外国人墓地がある。

※この「函館山麓の坂道」の解説は、「函館西部地区の町並み」の解説の一部です。
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