内ゲバの激化
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「革命的共産主義者同盟全国委員会」の記事における「内ゲバの激化」の解説
70年安保闘争期、中核派を始めとする多くの新左翼党派は街頭実力闘争に熱心に取り組んだ。それに対して、革マル派は組織の維持拡大を重視して、積極的に各大学自治会の支配権を掌握しようとした。革マル派は中核派の街頭実力闘争を「権力に対する挑発行為」として批判した。 しかし、東大闘争において1969年(昭和44年)1月の機動隊導入の直前に革マル派は「敵前逃亡」し、これによって、革マル派は各大学から完全に孤立した。そこで革マル派は「暴力的党派闘争による他党派解体と勢力拡大」を目指す路線に変更し、民主青年同盟ならびに全ての新左翼、さらにはノンセクトに対してまで暴力的襲撃をはじめた。 とりわけ、革マル派は新左翼党派で同じく最大級の規模を持つ中核派と解放派に対しては激しく暴力的襲撃を行なった。この時、中核派は街頭実力闘争による大量逮捕で組織を弱体化させていたので、この革マル派の攻撃で中核派は一時大きなダメージを受けた。しかし、その後、中核派と解放派は自分たちの組織を「軍隊化」させていき、革マル派に対して暴力的報復を開始する。 その後、この中核派・解放派と革マル派の間で「内ゲバ」が本格的に始まり、この暴力・武力による両者の戦いは、悲しみ、憎しみによる復讐の連鎖を生み、やがて互いの組織壊滅を目的とした、凄惨な「殺し合い」へとエスカレートしていくことになる。そして、血で血を洗うこれらの「内ゲバ」は学生運動を弱体化させ、一般の大衆、一般の学生たちが新左翼から離れてゆく大きな原因となった。 1975年(昭和50年)3月14日、中核派の最高指導者だった本多延嘉が革マル派の構成員によって殺害される事件が起きた。(「中核派書記長内ゲバ殺人事件」)。 この「最高指導者の暗殺」という大きな事態に中核派は革マル派幹部である「黒田寛一、松崎明、土門肇の革命的処刑」を宣言し、凄まじい報復を行った。しかし、現在に至るまで3氏の「革命的処刑」は実現していない(黒田は2006年に、松崎は2010年にそれぞれ病死。中核派は黒田の死について「恥多き死を強制した」と称している)。 中核派の「軍事部門」を指揮してきた清水丈夫がまとめた統計によると「73年9.21以来の中核派の対革マル派『赤色テロ』は件数で436戦闘、『完全殲滅』(死亡)43人、そのうち、75年3.14(革マル派による本多殺害)以後の革マル派の死亡は31人」。革マル派と解放派の抗争は「内ゲバ戦争」となり、その死者の数は百名近くになった。 この「内ゲバ戦争」の被害は両派とは関係のない一般人にまで及んでいる。 1974年(昭和49年)2月6日に琉球大学構内で中核派が革マル派と誤認して無関係な一般学生を殺害するなど、中核派は一般人を革マル派と間違って襲撃する「誤爆」事件を複数起こしている。 このような一般人の巻き添えについては、中核派はそもそも誤爆であると認めておらず、したがって、これまでのところ被害者に対する謝罪などはほとんど行われていない(例外として、在日朝鮮人の女性を負傷させた際に、在日本大韓民国民団(民団)と在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)による「組織的な抗議」を受けて、謝罪を表明した事がある)。 1980年代に入ると、三里塚闘争(成田空港問題)で、「一坪再共有化運動」の是非を巡って三里塚芝山連合空港反対同盟内部での対立が激化し反対・賛成両派が分裂した。共有化運動を推進したのは「熱田派」と呼ばれ、第四インター統一書記局派(「第四インター派」)らが支持。共有化運動を「土地の売り渡し」「金儲け運動」として反対したのは「北原派」で、中核派・革労協狭間派らが支持した。反対同盟内部の対立は、それぞれの支援党派の対立に発展してゆく。中核派は、第四インター派を「公団に土地を売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定した。 そして1984年(昭和59年)1月、全国一斉に五箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃、7月にふたたび一斉に三箇所の第四インター派メンバー宅を襲撃した。これらのテロによって8人が重傷を負い、その内一人は頭蓋骨陥没、一人が片足切断の重傷となった。『前進』紙上でこのテロの「戦果」を発表した際には(同年1月23日付1169号と同年7月23日付1195号)、襲撃した第四インター派メンバーの本名と職場、そして地番までの住所を掲載した。 さらに中核派は、第四インター派のメンバーや「熱田派」所属の空港反対派農家、あるいは「一坪共有者」の自宅や勤務先に押しかけたり、脅迫電話を掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝を展開した。千葉県収用委員会会長襲撃事件では犯行声明を発表した。また、成田現地闘争の際に、熱田派所属の農家や1987年(昭和62年)に、北原派から離脱した小川派の農家の軒先で、名指しで「脱落派○○を粉砕するぞ」とシュプレヒコールをあげるなどした。 ところが1988年(昭和63年)に、中核派は「脱落派の再共有化に応じた人びとを含む全国千二百人の一坪共有者に訴える。その権利を絶対に守り抜くことは人民の正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」とした。ただし、第四インター派へのテロや非北原派の反対派農家への恫喝について何の謝罪はしていない。 ただし、「中央派」と決別した革命的共産主義者同盟再建協議会(いわゆる「関西派」、「中央派」は「塩川一派」と呼称)が2009年(平成21年)に第四インターへのテロについて、「革命軍戦闘という方法での軍事的せん滅戦は、明らかな誤りであった」と「階級全体」に自己批判するとしているが、第四インターや被害者への謝罪はしていない。なお「中央派」は「関西派」のこの自己批判に対し、「塩川一派の敵対粉砕を 第四インターに『自己批判』し三里塚闘争の原則解体に走る」という声明を発表した。 第四インターへのこうした内ゲバに対しては、被害を受けた第四インターからはもちろんのこと、外部からも批判が集中した。のちに中核派を離脱した小西誠によると、中核派組織内においてすら批判的な声は少なくなかったが、指導部の「批判するものは組織を去れ」という統制によって、中核派内部の批判が公然化することはなかったという。 この第四インターへの内ゲバは、それまで新左翼各党派や各種の大衆運動界隈の一部に存在していた、中核派への好意的空気、同情的空気を決定的に失わせた。また、三里塚闘争の分裂は、各種の大衆運動の分裂へと波及し、中核派はいくつかの大衆運動から、革マル派とともに排除される傾向が強まることになった。当時の中核派は、統一戦線より独自路線による運動展開を優先した側面もある。
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