内ゲバの激化とは? わかりやすく解説

内ゲバの激化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 10:39 UTC 版)

革命的共産主義者同盟全国委員会」の記事における「内ゲバの激化」の解説

70年安保闘争期、中核派始めとする多く新左翼党派街頭実力闘争熱心に取り組んだ。それに対して革マル派組織維持拡大重視して積極的に大学自治会支配権掌握しようとした革マル派中核派街頭実力闘争を「権力対す挑発行為」として批判した。 しかし、東大闘争において1969年昭和44年1月機動隊導入直前革マル派は「敵前逃亡」し、これによって、革マル派は各大学から完全に孤立した。そこで革マル派は「暴力的党派闘争による他党解体勢力拡大」を目指す路線変更し民主青年同盟ならびに全ての新左翼さらにはノンセクトに対してまで暴力的襲撃はじめたとりわけ革マル派新左翼党派同じく最大級規模を持つ中核派解放派に対して激しく暴力的襲撃行なった。この時、中核派街頭実力闘争による大量逮捕組織弱体化させていたので、この革マル派攻撃中核派一時大きなダメージ受けた。しかし、その後中核派解放派自分たちの組織を「軍隊化」させていき、革マル派に対して暴力的報復開始するその後この中派・解放派革マル派の間で「内ゲバ」が本格的に始まり、この暴力武力による両者戦いは、悲しみ憎しみによる復讐連鎖を生み、やがて互い組織壊滅目的とした、凄惨な殺し合い」へとエスカレートしていくことになる。そして、血で血を洗うこれらの「内ゲバ」は学生運動弱体化させ、一般大衆一般学生たちが新左翼から離れてゆく大きな原因となった1975年昭和50年3月14日中核派最高指導者だった本多延嘉革マル派構成員によって殺害される事件起きた。(「中核派書記長内ゲバ殺人事件」)。 この「最高指導者暗殺」という大きな事態中核派革マル派幹部である「黒田寛一松崎明土門肇の革命的処刑」を宣言し、凄まじい報復行った。しかし、現在に至るまで3氏の「革命的処刑」は実現していない(黒田2006年に、松崎2010年それぞれ病死中核派黒田死について「恥多き死を強制した」と称している)。 中核派の「軍事部門」を指揮してきた清水丈夫がまとめた統計によると「73年9.21以来中核派の対革マル派赤色テロ』は件数436戦闘、『完全殲滅』(死亡43人、そのうち75年3.14革マル派による本多殺害以後革マル派死亡31人」。革マル派解放派抗争は「内ゲバ戦争」となり、その死者の数百名近くになった。 この「内ゲバ戦争」の被害は両派とは関係のない一般人にまで及んでいる。 1974年昭和49年2月6日琉球大学構内中核派革マル派誤認して無関係な一般学生殺害するなど、中核派一般人革マル派間違って襲撃する誤爆事件複数起こしている。 このような一般人巻き添えについては、中核派そもそも誤爆であると認めておらず、したがってこれまでのところ被害者対す謝罪などはほとんど行われていない(例外として、在日朝鮮人女性負傷させた際に、在日本大韓民国民団民団)と在日本朝鮮人総聯合会朝鮮総連)による「組織的な抗議」を受けて謝罪表明した事がある)。 1980年代に入ると、三里塚闘争成田空港問題)で、「一坪共有化運動」の是非を巡って三里塚芝山連合空港反対同盟内部での対立激化し反対賛成両派が分裂した共有化運動推進したのは「熱田派」と呼ばれ第四インター統一書記局派(「第四インター派」)らが支持共有化運動を「土地売り渡し」「金儲け運動」として反対したのは「北原派」で、中核派革労協狭間派らが支持した反対同盟内部対立は、それぞれの支援党派対立発展してゆく。中核派は、第四インター派を「公団土地売り渡そうとする新しい型の反革命」と規定した。 そして1984年昭和59年1月全国一斉に五箇所の第四インターメンバー宅を襲撃7月にふたたび一斉に三箇所の第四インターメンバー宅を襲撃した。これらのテロによって8人が重傷負いその内一人頭蓋骨陥没一人片足切断重傷となった『前進』紙上でこのテロの「戦果」を発表した際には(同年1月23日付1169号と同年7月23日付1195号)、襲撃した第四インターメンバー本名職場、そして地番までの住所掲載した。 さらに中核派は、第四インター派のメンバーや「熱田派」所属空港反対派農家、あるいは「一坪共有者」の自宅勤務先押しかけたり、脅迫電話掛けて「次はお前だ」などと組織的に恫喝展開した千葉県収用委員会会長襲撃事件では犯行声明発表したまた、成田現地闘争の際に、熱田所属農家1987年昭和62年)に、北原派から離脱した小川派の農家軒先で、名指しで「脱落○○粉砕するぞ」とシュプレヒコールをあげるなどした。 ところが1988年昭和63年)に、中核派は「脱落派の再共有化応じた人びとを含む全国二百人の一坪共有者訴える。その権利絶対に守り抜くことは人民正義であり、三里塚闘争勝利のために不可欠である」とした。ただし、第四インター派へのテロや非北原派の反対派農家への恫喝について何の謝罪はしていない。 ただし、「中央派」と決別し革命的共産主義者同盟再建協議会いわゆる関西派」、「中央派」は「塩川一派」と呼称)が2009年平成21年)に第四インターへのテロについて、「革命軍戦闘という方法での軍事的せん滅戦は、明らかな誤りであった」と「階級全体」に自己批判するとしているが、第四インター被害者への謝罪はしていない。なお「中央派」は「関西派」のこの自己批判対し、「塩川一派敵対粉砕第四インターに『自己批判』し三里塚闘争原則解体に走る」という声明発表した第四インターへのこうした内ゲバに対しては、被害受けた第四インターからはもちろんのこと外部からも批判集中した。のちに中核派離脱した小西誠によると、中核派組織内においてすら批判的な声は少なくなかったが、指導部の「批判するものは組織去れ」という統制によって、中核派内部批判公然化することはなかったという。 この第四インターへの内ゲバは、それまで新左翼党派各種大衆運動界隈一部存在していた、中核派への好意的空気同情的空気決定的に失わせた。また、三里塚闘争分裂は、各種大衆運動分裂へと波及し中核派はいくつかの大衆運動から、革マル派とともに排除される傾向が強まることになった当時中核派は、統一戦線より独自路線による運動展開を優先した側面もある。

※この「内ゲバの激化」の解説は、「革命的共産主義者同盟全国委員会」の解説の一部です。
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