倭系百済官僚
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科野の氏を持つ倭系百済官僚。科野国造軍として朝鮮に出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子が見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造の一族」という意味ではなく、氏姓制度が成立する以前に朝鮮に渡った信濃の人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンスで呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する。信濃の人間が外交に従事したのは、ヤマト王権内で信濃の人間が一定の役割を担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃に軍事行動の要である馬の文化が伝えられたからであると考えられる。 斯那奴阿比多(しなぬ(の)あひた)継体天皇紀、欽明天皇紀に登場する百済の使者。小林敏男は、「科野」の地名が「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとし、斯那奴阿比多は更埴エリア出身の人物であるとした。 斯那奴次酒(しなぬ(の)しす、科野次酒)欽明天皇紀に登場する百済の上部德率、施德、内臣德率。 科野新羅(しなぬ(の)しらき)欽明天皇紀に登場する百済の上部奈率。
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倭系百済官僚
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倭国における百済人の活動は『日本書紀』を筆頭に多数の記録が残されているのに対し、百済における倭人の活動についての文献史料は乏しい。『三国史記』「百済本紀」には倭国との国家間の関係については言及があるものの、百済内で活動した特定の個人や集団としての倭人についての記録は存在しない。しかも「百済本紀」における倭関係記事は397年から428年までの30年間に集中しており、その後7世紀まで言及がない。それでも、『隋書』東夷伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅、高麗、倭等、亦有中國人。(百済の先祖は高句麗国より出る。そこには新羅人、高句麗人、倭人などが混在しており、また中国人もいる)」との記録があり、『日本書紀』にも百済への兵や労働者の派遣の記録がある。また考古学的には百済後半期にその支配下に入る全羅南道を中心に倭系文物が発見されていることなどから、倭人が百済の領域に一定数居住していたことは確実である。 『日本書紀』の記録から注目されるのが現在「倭系百済官僚」と呼ばれる人々である。これはその名の通り、倭人であるが百済王権に仕えた人々を指す現代歴史学の用語である。5世紀後半において交易・外交・軍事などを契機として派遣された豪族らと現地女性との間に生まれた「韓子」「韓腹」と称される混血が多数存在し、倭から派遣された使者が長期的に任那・百済に居住した。その歴史的性格を巡っては未だ議論の最中にあるが、上部徳率科野次酒、物部連奈率用歌多、紀臣奈率弥麻沙などのように、倭系の氏(科野氏、物部氏、紀氏等)を持つ人物が百済の官職(徳率、奈率)を帯びていることによって判別される。『日本書紀』の編纂材料となっている百済系史料(百済三書)においては、親百済的であれば百済の官位を与えられ倭系百済官僚となり、反百済・親加耶的存在であれば、抵抗勢力として「任那日本府」として表現されたものと考えられられる。また、氏名に倭系の要素が含まれない人物や、百済の官職が明示されない者の中にも倭系百済官僚と見做せるものがおり、研究者の見解によって相違するものの十数名の倭系百済官僚を『日本書紀』から拾うことができる。古代史研究者の李在碩は、こういった倭系百済官僚の属性について、ヤマト朝廷における政治的地位を示すウジ・カバネを持ち、同時に百済の官職を保有することから、倭・百済双方の王権への両属性を持つことがその本質であったとしている。彼らは百済と倭国との外交で大きな役割を果たしたことが記録されているが、それがどのように誕生し、また終わりを迎えたのかはわかっていない。倭系百済官僚として確認できる人物は、 穂積押山 斯那奴阿比多 紀弥麻沙 物部麻奇牟(莫哥武とも) 斯那奴次酒(科野次酒) 物部用歌多 許勢哥麻 物部哥非 科野新羅 物部烏 日羅 である。 また、穂積押山は「委意斯移麻岐弥」と呼ばれていること、既酒臣、印支弥、吉備臣、河内直は百済によって使役されていることから、倭系百済官僚であるとする説が存在する。ただし、印支弥は倭系百済官僚であるとするならば、新羅に通じて母国の百済を攻撃しようとしたことになるので、「印支弥は百済在住の倭人であり、百済の権力を後ろ盾として倭王権に臣従して『倭臣』となり、初期は百済に従い、後に倭の利益になるよう行動した」とする説も存在する。 百済で活動した倭人百済官僚と目される人物としては、他にも前部施徳日佐分屋や河内部阿斯比多がいる。日佐氏は渡来系の氏族であり、分屋の頃には未だ百済人であったのか、日佐氏は既に倭に渡来しており倭人として百済に渡っていたのかは不明であるが、後者であったなら倭系百済官僚となる。阿斯比多は朝鮮から倭に派遣された人物であるものの、百済によって派遣されたのか、加羅によって派遣されたのか、安羅によって派遣されたのかは不明であるため、百済によって派遣されていたのなら倭系百済官僚ということになる。 倭系百済官僚の多くは、初期には県城以下の地方官僚クラス(六品相当の奈率)であったが、欽明期後半に倭系百済官僚の地位が上昇し五部名を付するようになることと関連し、都下に居住する官僚となったことが想定される。 『隋書』百済伝に記載されるように、百済は多民族的国家であり、軍事・外交・行政には百済人だけでなく、中国系や倭人系の能力ある者たちも登用されていたと推測される。 倭系百済官僚の活動時期については、日羅が安閑期に派遣されたことから6世紀以降と推定されることが多い。しかしながら、彼の父の名前「火葦北国造阿利斯登」は、半島系の名前であり、父の代から活動していたことが想定される。また、「斯那奴阿比多」は、単に「日本阿比多」とも表記されるので「斯那奴」は地名ではあるが、「科野直」のような氏姓が成立する以前の表記であり、五世紀段階にさかのぼる時期に半島に渡ったことが想定される。雄略期から継体期にかけて、しばらくヤマト王権の外交的統制は弛緩するが,こうした時期に各地の豪族が氏族的利害により百済に渡り官僚化したものと推測される。 また、倭人との関係で注目されるのは全羅南道の栄山江流域に広く分布する前方後円墳である。この墳形は長鼓墳とも呼ばれ、被葬者の性質については不明であるが、日本列島の前方後円墳と密接な関わりがあることが明らかである。栄山江流域の前方後円墳については墓制節を参照。
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