倭系百済官僚とは? わかりやすく解説

倭系百済官僚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 13:55 UTC 版)

科野国造」の記事における「倭系百済官僚」の解説

科野の氏を持つ倭系百済官僚。科野国造軍として朝鮮出兵した国造の子弟が、現地人の妻との間に残した子孫であるとされる。ただし、「物部莫奇武連」「紀臣奈率彌麻沙」のような他の倭系百済官人とは異なり、姓を有している様子見られないので、ここでの「シナノ氏」は「科野国造一族」という意味ではなく氏姓制度成立する以前朝鮮渡った信濃人間が「シナノの人の〇〇」といったニュアンス呼ばれていた(=シナノは氏ではない)とする説も存在する信濃人間外交従事したのは、ヤマト王権内で信濃人間一定の役割担っており、そのようになったのは、渡来人によって信濃軍事行動の要である馬の文化伝えられたからであると考えられる斯那奴阿比多(しなぬ(の)あひた)継体天皇紀、欽明天皇紀に登場する百済使者小林敏男は、「科野」の地名が「シナ段差)」に由来する説を取った上でシナノという地名発生地を埴科・更科エリアであるとし、斯那奴阿比多更埴エリア出身の人物であるとした。 斯那奴次酒(しなぬ(の)しす、科野次酒欽明天皇紀に登場する百済の上部德率、施德、内臣德率。 科野新羅(しなぬ(の)しらき)欽明天皇紀に登場する百済の上部奈率。

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倭系百済官僚

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 14:11 UTC 版)

百済」の記事における「倭系百済官僚」の解説

倭国における百済人活動『日本書紀』筆頭多数記録残されているのに対し百済における倭人活動について文献史料乏しい。『三国史記』「百済本紀」には倭国との国家間の関係については言及があるものの、百済内で活動した特定の個人集団としての倭人についての記録存在しない。しかも「百済本紀」における倭関係記事397年から428年までの30年間に集中しており、その後7世紀まで言及がない。それでも、『隋書』東夷伝には「百濟之先、出自高麗國。其人雜有新羅高麗、倭等、亦有中國人。(百済先祖高句麗国より出る。そこには新羅人高句麗人、倭人などが混在しており、また中国人もいる)」との記録があり、『日本書紀』にも百済への兵や労働者派遣記録がある。また考古学的に百済後半期にその支配下に入る全羅南道中心に倭系文物発見されていることなどから、倭人百済領域一定居住していたことは確実である。 『日本書紀』記録から注目されるのが現在「倭系百済官僚」と呼ばれる人々である。これはその名の通り倭人であるが百済王仕えた人々を指す現代歴史学の用語である。5世紀後半において交易外交・軍事などを契機として派遣され豪族らと現地女性との間に生まれた韓子」「韓腹」と称される混血多数存在し、倭から派遣され使者長期的に任那百済居住したその歴史性格巡って未だ議論最中にあるが、上部徳率科野次酒物部連奈率用歌多、紀臣奈率弥麻沙などのように、倭系の氏(科野氏物部氏紀氏等)を持つ人物百済官職(徳率、奈率)を帯びていることによって判別される。『日本書紀』の編纂材料となっている百済史料百済三書においては、親百済であれば百済官位与えられ倭系百済官僚となり、反百済・親加耶存在であれば抵抗勢力として「任那日本府」として表現されたものと考えられられる。また、氏名に倭系の要素含まれない人物や、百済官職明示されない者の中にも倭系百済官僚と見做せるものがおり、研究者の見解によって相違するものの十数名の倭系百済官僚を『日本書紀』から拾うことができる。古代史研究者の在碩は、こういった倭系百済官僚の属性についてヤマト朝廷における政治的地位を示すウジ・カバネを持ち同時に百済官職保有することから、倭・百済双方王権への両属性を持つことがその本であったとしている。彼らは百済倭国との外交大きな役割果たしたことが記録されているが、それがどのように誕生し、また終わり迎えたのかはわかっていない。倭系百済官僚として確認できる人物は、 穂積押山 斯那奴阿比多 紀弥麻沙 物部麻奇牟哥武とも) 斯那奴次酒科野次酒物部用歌多 許勢哥麻 物部哥非 科野新羅 物部烏 日羅 である。 また、穂積押山は「委意斯移麻岐弥」と呼ばれていること、既酒臣印支弥吉備臣河内直百済によって使役されていることから、倭系百済官僚であるとする説が存在する。ただし、印支弥は倭系百済官僚であるとするならば、新羅通じて母国百済攻撃しようとしたことになるので、「印支弥百済在住倭人であり、百済権力後ろ盾として倭王臣従して『倭臣』となり、初期百済従い、後に倭の利益になるよう行動した」とする説も存在する百済活動した倭人百済官僚目される人物としては、他にも前部徳日佐分屋や河内部阿斯比多がいる。日佐氏渡来系氏族であり、分屋の頃には未だ百済人であったのか、日佐氏は既に倭に渡来しており倭人として百済渡っていたのかは不明であるが、後者であったなら倭系百済官僚となる。阿斯比多は朝鮮から倭に派遣され人物であるものの、百済によって派遣されたのか、加羅によって派遣されたのか、安羅によって派遣されたのかは不明であるため、百済によって派遣されていたのなら倭系百済官僚ということになる。 倭系百済官僚の多くは、初期には県城以下の地方官僚クラス(六品相当の奈率)であったが、欽明後半に倭系百済官僚の地位上昇し五部名を付するうになることと関連し都下居住する官僚となったことが想定される『隋書』百済伝記載されるように、百済は多民族的国家であり、軍事・外交行政には百済人だけでなく、中国系や倭人系の能力ある者たちも登用されていたと推測される。 倭系百済官僚の活動時期については、日羅安閑期に派遣されたことから6世紀以降推定されることが多い。しかしながら彼の父の名前「火葦北国造阿利斯登」は、半島系の名前であり、父の代から活動していたことが想定されるまた、斯那奴阿比多」は、単に「日本阿比多」とも表記されるので「斯那奴」は地名ではあるが、「科野直」のような氏姓成立する以前表記であり、五世紀段階さかのぼ時期半島渡ったことが想定される雄略期から継体期にかけて、しばらくヤマト王権外交的統制弛緩するが,こうした時期各地豪族氏族利害により百済渡り官僚化したもの推測されるまた、倭人との関係で注目されるのは全羅南道栄山江流域広く分布する前方後円墳である。この墳形長鼓墳とも呼ばれ被葬者性質については不明であるが、日本列島前方後円墳密接な関わりがあることが明らかである。栄山江流域前方後円墳については墓制節を参照

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