代替交通機関の整備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 20:26 UTC 版)
国鉄の影響力低下は単に貨物輸送に止まらなかった。鉄道全体としては需要の伸びていた大都市圏、特に首都圏通勤通学輸送においてもかつて程の影響力は持ちえなくなっていたことを朝日新聞は下のような数字を挙げて指摘している。高度経済成長に伴う大都市への人口集中によって、私鉄・公営地下鉄などが大幅に輸送力を増強したからであった。なお、関西圏においてはその傾向は戦前からあり、鉄道分野では私鉄の方が通勤通学の主役であった。当時の報道で関西の混雑について余り報じられていないのはそうした事情もある。関東、関西以外の大都市では道路の整備が進んだこともあって鉄道以外の交通手段(自動車)が相当浸透しており、通勤輸送において国鉄の影響力は小さなものとなりつつあった。なお、朝日新聞によれば運輸省職員達は民鉄を礼賛し、木村睦男運輸大臣は「ひとむかし前と違って、私鉄や地下鉄が格段と強化されていますからね。国鉄ストといっても大したことは…」と述べていた。 私鉄側もこのストに支援ストを打たなかった各社では、「公共的使命を果たしています」とPRを行っていた。この時主要な大手私鉄は偶々、1975年8月に運賃改訂案を提出しており、運輸大臣の諮問機関、運輸審議会でその内容の審議が大詰めを迎えていたが、「兼業で儲けて輸送力増強を怠っている」といった世論からの批判に晒され、定量的な反論のための資料を準備して10月に発表するなどしたが、その直後スト権ストが発生し、乗客のために列車の運行を続ける自分たちの姿を宣伝する機会が到来した。このストを機会に民鉄協は、峠を越した組合対策から利用者への説明に重点をシフトするよう決めており、その点でも国鉄との違いを見せている。なお、運輸審議会が値上げ申請に対して答申を提出したのはスト終盤の12月2日であり、前回(1974年)の値上げが不十分だったことも相俟って、申請した値上げ幅に近い率での値上げを認可するものだった。 「通勤輸送の四大都市圏比較」(単位%、運輸省調べ) 各都市圏国鉄私鉄・地下鉄自動車首都圏 24.2 35.6 40.2 中京 6.2 27.0 66.8 京阪神 13.5 44.9 41.6 三大都市交通圏全体 19 37 44 福岡 9.7 21.8 68.5 なお、当時、首都圏の公民鉄各線の輸送力増強・新設計画は国鉄線とは別立てで、運輸大臣の諮問機関である都市交通審議会で各社・自治体等の意向を調整した後、答申として纏められていた。答申は都市圏の膨張に伴って数度の改訂を経ていたが、1968年4月10日に提出された都市交通審議会答申第10号までは目標年次を偶々1975年として策定し、不十分との評価を受けつつも、政府・自民党も財政支援策を打っていったため党機関紙『政策月報』でもこの答申を扱っている。しかし、この答申10号で既存路線の混雑緩和策として追加された路線を中心に、地下鉄網の建設は遅延していた。そのため、救済対象であった銀座線、丸ノ内線などの混雑が上述のように極限に達している。他にも民鉄線を中心に工事に遅れが生じていたり、計画のみで着工できない路線が幾つもあった。なお、この答申に続く答申である都市交通審議会答申第15号がストの3年前に提出されており、スト時点で首都圏の最新の計画だったが、その目標年次は1985年であり、計画通り建設されたとしてもこのストには間に合うものではなかった。 ただし、常磐線沿線のように当時、近隣に鉄道路線の無い地域では上述のように、ストの影響は大きかった。結局、スト期間を通じ足を奪われた人の約1割が民鉄に振替利用する結果となった。また、国鉄線と私鉄線が平行していてもその輸送力に格差が開きすぎている場合にも、いわゆる殺人的混雑は発生した。その典型が当時の経営難で輸送改善が進まなかった京成である。『交通新聞』ではスト期間中割れたガラスの枚数は私鉄で最も多かったことが報じられている。その数、158枚。京成の担当者は「輸送力増強の立ち遅れは認めるが、国鉄、営団と同じにやれというのが無理な話」とコメントを出した。いずれにせよ代行輸送を果たした私鉄各社は交通新聞からも賞賛の扱いを受けている。
※この「代替交通機関の整備」の解説は、「スト権スト」の解説の一部です。
「代替交通機関の整備」を含む「スト権スト」の記事については、「スト権スト」の概要を参照ください。
- 代替交通機関の整備のページへのリンク