事故後の処理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 19:40 UTC 版)
「二又トンネル爆発事故」の記事における「事故後の処理」の解説
事故翌日には福岡の地元紙『西日本新聞』の記者が列車で現地入りし、14日から少なくとも3日間にわたって記事や写真を掲載している。記事によれば事故の翌々日には連合軍司令部の中佐と福岡県知事の代理人がそれぞれ現地視察と負傷者の慰問を行っている。 被害者への被害救済について連合軍からは補償が行われることはなく、当初は11月15日戦時災害保護法の適用を決めた福岡県から死者1人につき500円(現在の400万円相当)が支給されただけであった。事故後、地元の有志十数名で「二又トンネル爆発事故復興委員会」が自主的に結成され、地元の復興を目指し諸般の世話、国や福岡県への陳情を行った。その結果、佐世保援護局から旧軍人の古被服4000点を受領し被害者に配布したり、慰霊碑の建立や合同慰霊祭を行ったりするなど、ある程度の成果を収めたものの、補償に関してはその活動が実を結ぶことはなく、その後復興委員会は解散した。 そのため、弁護士の勧めもあって、被害者のうち16世帯が、連合軍将校に危険を知らせなかった警察官の注意義務違反によって大惨事が起きたとして、国(国家地方警察)に対して損害賠償請求の訴えを起こした。1審の東京地方裁判所では「加害者は連合国軍にある」として訴えは棄却されたが、2審の東京高等裁判所は1953年5月28日に「旧陸軍と警察官たちに過失責任がある」として原告の訴えを認める判決を下し、1956年4月には最高裁判所も国側の上告を棄却したため、住民の勝訴となった。 事故の原因について、最初に点火された吉木トンネルでは格納率が20~25%と少なく、小爆発を起こしながらも40数日間かけて燃焼したが、二又トンネルでは格納率が70~75%と高く燃焼が進むにつれて爆発が拡大し、このような大爆発になったと裁判所は結論付けた。 また、この裁判とは別に1954年3月、日本政府の特別調達庁(のちの防衛施設庁)から僅かながら見舞金が支給された。この支給に関しては、この裁判への参加・不参加には関係なく被害者全員平等に扱われた。 一方、この訴訟に裁判費用が工面できずに入れなかった被害住民は遺族会を結成し、国に被害弁償を行うように陳情していた。この事故は占領軍による被害の中で最大最悪のものとなったが、このとき国は他に2000件以上も同様の被害に対する陳情を抱えており、その内容も種々雑多なものがあり各々その地区の代議士が後援しているため、安易に妥協できないとして、当時の官房副長官からの指示で当事故の被害補償を民事調停の場で解決することになった。遺族会は幸いにも当時の法務省民事局長の厚意で弁護士の紹介を受け、民事調停に臨むことになり、1957年1月25日に東京簡易裁判所で調停が成立した。このとき遺族会の面々は「申立人は今後本件についていかなる名義を以ってするも何ら要求をしない」との一札を入れて裁判所からの慰藉金を受け取り、遺族会は解散した。 また1961年11月11日に「連合国軍等の行為による被害に対する給付金の支給に関する法律」が施行されたが、この時多くの遺族はこの法律のことを知らなかったため、地元の有力者が中心となって国に請願を行い、遺族たちにも説明して再び遺族会を結成し、粘り強く陳情を続けたが、前述の裁判の結果に反するとして国側はなかなかこの法律の適用を認めようとしなかった。しかしながら1963年、最終的に国側はこの法律の適用を認め、この事故の遺族たちも救済の対象となった。さらには1967年1月18日にこの法律が改正され、遺族たちは給付金の追加支給を受けている。 しかし、被害者遺族に対して支給された見舞金などの総額は全被害額の3%にも満たないものであった。なお、事故の原因となった火薬焼却の指示を出したユーイング少尉は1946年2月に軍法会議にかけられ、有罪判決の上降格・不名誉除隊(日本で言えば懲戒免職処分)になった。点火後二又トンネルを託され殉職した巡査部長は事故後警部補へ特進となり、警察功労章と勲八等白色桐葉章が授与された。
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