慰霊碑の建立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/22 00:57 UTC 版)
「長崎医科大学 (旧制)」の記事における「慰霊碑の建立」の解説
かろうじて即死を免れた多くの重傷者が逃げのび、命を落とした構内「グビロが丘」(先述)では、敗戦後の10月から11月にかけて数多くの学生たちの遺体が収集・埋葬された。これによりグビロが丘は原爆の惨劇を象徴する聖地として位置づけられるようになり、1947年にはこの丘に、大講堂の玄関に用いられていた花崗岩を用いて慰霊碑が建立された(現在の碑は1955年に建てられたもの)。旧医大校地(現・長崎大医学部キャンパス)内で、このほかに原爆被災を記念するモニュメントとしては、角尾晋学長の銅像、爆風により前に9cmずれ傾き台座との間で隙間が空いたまま現場保存されている旧医大正門の門柱(現医学部裏門)がある。 旧長崎医大正門 左側の門柱正面 左側の門柱側面 右側の門柱 長崎大学医学部ゲストハウス(被爆時は長崎医大配電室)
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慰霊碑の建立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/28 15:10 UTC 版)
事故の翌月、悲惨な事故の記憶を継承し惨事を繰り返さない戒めとするため、犠牲者の慰霊碑を建立する運動が起こった。中心となったのは当時の長浜商工団体の会員33名だった。事故発生から13日後の愛媛新聞には、実際の完成形に近い形の慰霊碑完成図が掲載されている。工事は捜索活動にも携わった地元の松栄建設が行った。慰霊碑は事故現場よりも東側に建立されている。 慰霊碑はまもなく完成し、5月8日に除幕式が執り行われた。上部には当時の久松定武愛媛県知事の筆による「慰霊碑」の3字、その下に9名の全犠牲者の氏名が刻まれている。裏面には伊予鉄道株式会社、伊予鉄道労働組合、長浜町双葉会、長浜町消防団、長浜町連合青年団、長浜町連合婦人会の6団体が世話人として名を連ね、その横には工事に関与した松栄建設、大洲市の田所石材店の名も刻まれている。 事故から60年以上が経過した2019年年末においても、慰霊碑には犠牲者数と同じ、9本の榊が供えられている。季節によっては、みかんなどの供え物なども見受けられる。
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