慰霊碑・納骨堂の建立とは? わかりやすく解説

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慰霊碑・納骨堂の建立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/06 08:50 UTC 版)

尼港事件」の記事における「慰霊碑・納骨堂の建立」の解説

事件大々的報道され6月以降各地法要招魂祭催されまた、遺族婦人団体在郷軍人団体宗教家などが現地訪れて慰霊つとめた北海道小樽市は、樺太シベリア方面への物資積み出し港であり、ニコラエフスクとも縁が深かった1924年大正13年になって小樽市民の総意軍部請願し遭難者遺灰払い下げ運動起こしたニコラエフスク焼却され遺骨は、アレクサンドロフスク慰霊碑保管されていたが、これを小樽永久保存しようということになったのである。軍からの許可出て市民迎えられ遺骨は、市内浄応寺保管された。1937年昭和12年になって市内素封家藤山要吉私財をなげうち、市民呼びかけて、手宮の丘に慰霊碑納骨堂建てた戦前には、毎年尼港記念日5月24日法要が行われていた。第二次大戦後、小樽進駐してきたアメリカ進駐軍から、「破壊せよ」と命令があったが、小樽市民はこれを拒んで守り通した尼港事件民間人殉難者には、熊本県天草出身者が多い。他県在住縁者加えると110名にのぼり、ほぼ三分の一達する。1895年明治28年)、天草北部の二組の夫婦が、それぞれに若い女性たちを連れてニコラエフスク渡り水商売始めた以来水商売限らず洗濯業や洋服仕立業で、家族ぐるみ移住者増え中には成功して貿易業旅館経営をする者も現れていた。小樽同じく昭和12年遺族たちの手によって、天草市五和町手野に、尼港事変殉難者碑が建てられている。こちらは、毎年3月12日慰霊祭が行われ、1970年昭和45年)には50年祭が盛大に催された。 全員犠牲となった第14師団尼港守備隊出身地茨城県水戸の堀原、もと練兵場のあった場所にも、尼港殉難記念碑建っている。戦前は、毎年かかさず慰霊祭が行われていたが、戦後行われなくなり記念碑建っている場所も堀原運動公園向かいにある小さな公園の奥であるので、碑のいわれを知る市民どころかそもそも碑がある事すら知らない市民増えている。その他、札幌護国神社境内にも尼港殉難碑があるが、これは、1927年昭和2年)、救援隊兵士達が旧丸山界川建立したもので、戦後現在地移された。

※この「慰霊碑・納骨堂の建立」の解説は、「尼港事件」の解説の一部です。
「慰霊碑・納骨堂の建立」を含む「尼港事件」の記事については、「尼港事件」の概要を参照ください。

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