慰霊碑赤ペンキ事件
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2004年 (平成16年) の春に、無言館の入り口前に「記憶のパレット」という名で、戦没画学生の慰霊碑が作られた。「記憶のパレット」は名前の通りパレットの形状をした慰霊碑で、重量約23トンの黒御影石で作られている。この慰霊碑も無言館と同様、全国から約1000人の篤志家による寄付金で賄われた。 この慰霊碑には、戦没画学生489名の名前が刻まれているが、うち約3分の1は無縁仏で、親族が不明であるだけでなく遺作も確認されておらず、卒業者名簿や戦没者名簿に名前が確認されているのみである。日本国内では大きさのある質の高い黒御影石の入手は困難だったことから中国山西省華北地区の石が使われることになり、「記憶のパレット」の上部に掘られた「授業風景」の部分が中国国内で篆刻された。残りの、画学生の名前の篆刻は日本国内で行われた。 2005年 (平成17年) 6月18日、この「記憶のパレット」に何者かが赤ペンキをぶちまけるという事件が発生した。中央部の約3分の1にわたって赤ペンキがかけられただけでなく、ペンキは何種類かの塗料と薬剤を混ぜて粘着性を高め、ペンキが落ちにくいよう意図的に作られていたという悪質なものだった。 当然のこととして、犯行には何らかの政治的な意図があることが疑われ、遺族たちは非常に怒ったが、結局犯人はつかまらなかった。館主の窪島誠一郎は遺族や関係者の反対を押し切って、赤ペンキの一部をそのまま残すことにしたため、現在でもその痕跡を見ることが出来る。無言館顧問の野見山暁治は館主の窪島よりも更に強硬で、事件があった事実を残すために、赤ペンキを完全に残すように主張したが、結局折れて、窪島に従った。
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