慰霊等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 14:56 UTC 版)
1987年(昭和62年)に那覇市若狭の旭が丘公園に「海鳴りの像」と題する慰霊碑が建立され、2007年(平成19年)には犠牲者名を記した刻銘板が設置されている。また、2001年(平成13年)には、日本政府主催で対馬丸の遺族などと合同の洋上慰霊祭が客船ふじ丸を使って行われた。 湖南丸での民間人死者について対馬丸や地上戦協力死者と同様の日本政府による経済的補償を求める者もある。日本政府は、地上戦協力死者のような国との雇用関係に準じた関係や、対馬丸のような沖縄戦目前の国家政策による学童疎開という特別の事情は認められないとして年金給付等の対象にはしていない。
※この「慰霊等」の解説は、「湖南丸」の解説の一部です。
「慰霊等」を含む「湖南丸」の記事については、「湖南丸」の概要を参照ください。
慰霊等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 15:11 UTC 版)
東京芝の増上寺境内に「阿波丸事件殉難者之碑」がある。 阿波丸の残骸は1979年4月に中国政府の手によって中国領海内の福建省沖合11海里(約20km)の地点で発見された。中国政府は阿波丸の潜水調査を実施し、回収された遺骨158柱や遺品は日本側に引き渡された。同年7月5日、霞が関の厚生省にて帰還した遺骨の拝礼式が行われ、阿波丸遺族会の遺族ら約800人が参列して法要が営まれた。 阿波丸には戦時中に旧日本軍が接収したが行方不明となった北京原人の頭蓋骨標本が積載されていたという説があり、1977年に中国政府が調査を行ったが、潜水技術の限界などもあり、船員の遺骨やスズの塊の発見に止まった。2005年に再度の引揚げ計画もあったが、結果などの詳細は報道されておらず不明である。 積載が噂されていた金塊、プラチナ、工業用ダイヤモンドは発見されていない。
※この「慰霊等」の解説は、「阿波丸事件」の解説の一部です。
「慰霊等」を含む「阿波丸事件」の記事については、「阿波丸事件」の概要を参照ください。
慰霊等
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/12 15:20 UTC 版)
他の戦没船の多くと同様、武洲丸の沈没は戦時中に公表されず、生存者に対しても秘密保持が求められた。遺族ですらも、密かに病院を抜け出した生存者が発した電報からの口コミで遭難を知ったという。戦後も対馬丸に比べて知名度は低く、前橋松造の調査によると郷土史文献に船名が登場したのは1978年(昭和53年)発行の『天城町史』が初めてである。 33回忌の年忌供養にあたる1976年(昭和51年)に徳之島住民らの寄付によって徳之島町亀徳へ慰霊碑が建立され、遺族らによる慰霊祭が毎年行われている。慰霊碑周辺は「なごみの岬公園」となっており、軍隊輸送船富山丸の慰霊碑も立っている。2006年(平成18年)には日本政府主催の洋上慰霊祭が初めて行われた。対馬丸遭難学童特別支出金のような民間人遺族への補償を求める意見もあるが、実現していない。
※この「慰霊等」の解説は、「武洲丸」の解説の一部です。
「慰霊等」を含む「武洲丸」の記事については、「武洲丸」の概要を参照ください。
- 慰霊等のページへのリンク