募金の分配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:52 UTC 版)
「1888年の磐梯山噴火」の記事における「募金の分配」の解説
福島県は当初、天皇からの恩賜金3000円のうち1000円を被災者への補助、負傷者の救援費用など被災者支援に充て、残りの2000円で公債を購入して、その利子で窮乏している被災者への持続的な支援を行う計画であった。しかし新聞による義援金の募集状況や他の募金の集金状況が好調であったため、改めて範囲を広げて寄せられた募金の被災者への分配が行われることになった。 まず被災者に一時救助金として被災者一人当たり2円の支給が決定した。対象者は被災した地元住民に限らず、磐梯山の温泉に湯治に来て被災し、亡くなった人の家族なども対象となった。この一時救助金は8月10日から18日にかけて分配された。一時給付金の意味としては被災者への生活資金の支給という意味合いの他に、義援金など多くの募金が集まっていながら、被災者の手元に届いていないとの不満を和らげるとともに、被災者へ募金を配分していく福島県の姿勢をアピールする必要性があったと考えられている。 続いて発災後約半年後の1889年(明治22年)2月頃から7月頃にかけて、被災者へ第一回の救済金配分が行われた。この時の救済金配分では、被災状況によって1等から10等まで10段階に分け、1等は60円、そして10等は7円と等級ごとの基準額の救済金が支給された。なお後述のように、噴火時の岩屑なだれの直撃は免れた檜原村の檜原本村、小野川の両集落の住民も、河道閉塞の結果形成されつつあった湖の底に沈んでしまうため、新たな支援対象として救済金配分の対象となった。 募金の残額については、福島県は当初、公債の購入と銀行への預金を行い、その利子で被災者遺族へ持続的な支援を行う計画であった。しかし生活難に苦しむ被災者から救済金の再配分を求める声が上がったため、1890年(明治23年)3月末から第二回配分として、1等99円、10等11円55銭と、やはり被災状況を10段階に分けた各等級ごとに決められた援助金が配分された。 被災者が数百名単位であった磐梯山噴火では、義援金を中心とした募金の配分は被災者の生活再建に有効であった。なお募金の一部は死没者の招魂碑と慰霊碑の建立に使われた。
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