事故後の供養と石碑の建立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 21:26 UTC 版)
「箒川鉄橋列車転落事故」の記事における「事故後の供養と石碑の建立」の解説
10月10日、箒川鉄橋北詰の河原において付近の住民による供養が執り行われた。ささやかな角塔婆に野の花が手向けられ、僧侶の読経と老婆たちによるご詠歌の詠唱が河原に流れた。供養中に風が吹き始めてろうそくの火が消えかけたため、こうもり傘を広げて風を遮ったと伝えられている。 初七日の法要は、10日の住民たちによる供養と同じ場所で日本鉄道本社の主催により10月13日に執り行われた。法要は東京・芝の浄土宗大本山増上寺大僧正山下現有、深川の霊巌寺住職神谷大周を始めとして僧侶58人の他に宇都宮、矢板、野崎など近在の各寺院の僧侶が加わった。法要には遺族や遭難者に続いて、神野病院長や県立宇都宮病院長、消防組の人々や救助に当たった付近住民などが参列し、その数は1万人に及んだと当時の新聞は報道している。 事故の直後、慰霊碑を建立しようとの声が地元の人々から上がった。宇都宮市の日蓮宗妙正寺の檀家信徒が中心となって計画が進み、1周忌に合わせて高さ3メートルほどにもなる石塔婆が建立された。1900年(明治33年)10月7日の1周忌法要は妙正寺によって執り行われ、慰霊碑への入魂式も実施された。この慰霊碑は現存し、下り方面列車に乗って箒川鉄橋を渡った直後に左側の視界に入る。線路側から見た正面には「南無妙法蓮華経」、右側には「為汽車顛落横死諸亡霊」、左側には「宇都宮市日蓮宗妙正寺四十五世日興檀家信徒有志中」と深く刻まれている。慰霊碑は長年の風雪によって風化が進み一部に欠落が見られるものの、網谷りょういちは『日本の鉄道碑』の225頁で「判読不能の字は出ていない」と記述している。
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