リビアの苦境
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)
首都ンジャメナに対する攻撃が失敗したわずか数か月後、チャド民族解放戦線(FROLINAT)では内部対立の激化により所属各勢力の結束は打ち砕かれ、チャドにおけるリビアの影響力はひどく弱体化した。1978年8月27日夜、火山軍(英語版)の指導者アーマット・アシル(英語版)は、リビア軍の支援のもとファヤ・ラルジョーを攻撃した。これは明らかにカダフィの「チャド民族解放戦線(FROLINAT)の指導者をグクーニからアシルへとすげ替える」という試みであった。この試みは裏目に出ることになり、グクーニは、チャドにいるリビア軍事顧問を全て追放することで応じ、フランスとの和解を探り始めることとなった。 カダフィとグクーニの衝突には、民族的要因と政治的要因の二つの要因があった。チャド民族解放戦線(FROLINAT)は、アシルのようなアラブ人と、グクーニやハブレといったトゥブ族(英語版)に分かれていた。また、人種・民族の違いは、カダフィやその思想「緑の書」に対する姿勢の相違にも表れていた。特に、グクーニおよびその配下は、「『緑の書』をチャド民族解放戦線(FROLINAT)の公式政策に」というカダフィの要請に対し消極的であり、時間をかけたうえで、チャド民族解放戦線(FROLINAT)の活動が完全に再統合されるまでは、この問題を先延ばししようとしていた。再統合がなされ、カダフィが「緑の書」採用を再び要請すると、チャド民族解放戦線(FROLINAT)の革命評議会(the Revolution's Council)では意見の相違が明らかになった。すなわち、多くの者は、「チャド民族解放戦線(FROLINAT)が発足し、イブラヒム ・アバチャ(英語版)が初代事務総長に就任した1966年当時の活動方針」に従うと明言する一方、アシルほかの一部の者は、カダフィの考えを完全に受け入れるという状況であった。 首都ンジャメナでは、ハブレ首相の北部軍(FAN)とマルーム大統領のチャド政府軍(FAT)の2つの軍隊が同時に存在し、国家の崩壊と北部指導者の台頭をもたらすことになるンジャメナの戦い (1979年)(英語版)の舞台が整っていた。1979年2月12日、小規模な偶発的事件が北部軍(FAN)とチャド政府軍(FAT)の激しい戦闘に発展、2月19日にはグクーニ配下の人民軍(FAP)が北部軍(FAN)側としてンジャメナ入りすると、戦闘はさらに激化することとなった。最初の国際和平会議が開催された3月16日までで、死者は推定2千-5千人、避難民は推定6万-7万人に上った。消耗が激しいチャド政府軍(FAT)は、首都を対立する勢力の手に委ね、ワデル・アブデルカデル・カモゲ(英語版)の指導のもと、チャド南部にて再編成を行うこととなった。この戦いの間、フランス駐留軍は積極的な関与を行わず傍観していたが、チャド空軍(英語版)に空爆中止を要請するなど、状況によっては、ハブレ側を助けることすらあった。 1979年3月、国際和平会議がナイジェリアのカノで開催され、マルーム、ハブレ、グクーニのほか、チャドと国境を接する各国が参加した。3月16日に全ての出席者がカノ協定(英語版)に署名、マルーム大統領は辞任し、グクーニが議長を務める国家評議会が大統領職に取って代わることになった。これは、ナイジェリアとフランスが、グクーニとハブレに対し、権力を共有するように圧力をかけた結果であり、 特にフランスは、「グクーニとカダフィとの関係を完全に断ち切らせる」ための戦略の一つと考えていた。数週間後、同じ枠組みの各勢力は、暫定国民連合政府(英語版)(GUNT)を結成、「リビアをチャドから追い出したい」という共通の思いのもと、かなりの程度までまとまっていた。 リビアは、カノ協定に署名したにもかかわらず、火山軍の指導者たちが暫定国民連合政府(GUNT)に参画できず、アオゾウ地帯についてのリビアの主張が認められていないことに激怒していた。1979年4月13日以降、チャド北部ではリビアによる小規模な軍事活動がいくつか発生し、またチャド南部では分離独立運動への支援が行われていた。一方で、リビアが大きく動くのは、「より包括的な新たな統一政府の構築を」との近隣諸国からの最終的な要請が6月25日に回答期限を迎えてからであった。6月26日、リビア軍2500人がチャドに侵攻、ファヤ・ラルジョーに向かった。チャド政府はフランスに救援を要請。リビア軍は、はじめはグクーニ配下の民兵によって窮地に立たされ、その後、フランスの偵察機・爆撃機によって撤退を余儀なくされた。同月、暫定国民連合政府(GUNT)より締め出された各勢力は、対抗政府組織「暫定共同行動戦線(the Front for Joint Provisional Action、FACP)」を創設した。 リビアとの戦い、ナイジェリアによる経済的ボイコット、国際的な圧力がかかる状況下、1979年8月、新たな国際和平会議がナイジェリア・ラゴスで開催され、チャドで活動する政治勢力11グループのすべてが参加した。8月21日、新たな協定「ラゴス協定(英語版)」が署名・締結され、全ての政治勢力が参加する新しい暫定国民連合政府(GUNT)が結成されることとなった。またフランス軍はチャドから引き揚げ、アフリカ諸国による平和維持軍が派遣されることとなった。新しい暫定国民連合政府(GUNT)は1979年11月に発足し、グクーニ大統領、カモゲ副大統領、ハブレ国防相、アシル外相が就任した。反リビアのハブレはいるものの、新しい暫定国民連合政府(GUNT)の構成メンバーには、カダフィを満足させるのに十分な親リビア人材が揃っていた。
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