リビアの介入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 08:58 UTC 版)
暫定国民連合政府(GUNT)発足当初より、ハブレは政府内の他のメンバーを見下して接しており、政府内で孤立していた。チャドにおけるリビアの影響力に対するハブレの敵愾心は、彼自身の野心や冷酷さと一体化しており、周囲からは「ハレブは最も高い役職でないと決して満足しないだろう」と見られていた。遅かれ早かれ、ハブレと親リビア勢力との間で、さらに言えば、ハブレとグクーニの間で、武力衝突が発生すると考えられていた。 首都ンジャメナにおいて、ハブレ率いる北部軍(FAN)と親リビア勢力による衝突が発生し、次第に深刻なものとなった。1980年3月22日、前年の衝突と同じように、小規模な偶発的事件が第2次ンジャメナの戦い(英語版)に発展した。ハブレ率いる北部軍(FAN)とグクーニ率いる人民軍(FAP)が市内にそれぞれ1000-1500人の兵士を投入したこの戦いにより、10日間で、死者数千人、首都人口の約半分が避難する事態となった。フランス軍の大半は5月4日にチャドを離れていたが、残っていた少数のフランス軍部隊は、ザイールの平和維持軍と同じく、中立を宣言した。 北部軍(FAN)は経済的・軍事的支援をスーダン・エジプトから得ており、一方、グクーニ率いる人民軍(FAP)は、この戦いの開始直後にはチャド南部でカモゲ指導のもと再編されたFAT軍(元チャド政府軍)とアシルが設立した革命民主評議会(英語版)(CDR)から軍事支援を、またリビアから火砲の提供を受けていた。6月6日、北部軍(FAN)はファヤ・ラルジョーの支配権を掌握。これに危機感を抱いたグクーニは、6月15日、リビアとの友好条約に署名した。この条約は、チャドにおける自由な活動をリビアに認め、また、チャドにおけるリビアの駐留を合法化するものであり、条約冒頭の条項で、一方に対する脅威は他方に対する脅威であるとし、両国間の相互防衛を約定するものであった。 10月になると、ハリファ・ハフタルおよびアフマド・オウン(英語版)が率いるリビア軍はアオゾウ地帯に空輸され、グクーニ配下の軍隊と協同してファヤ・ラルジョーを再占領した。ファヤ・ラルジョーはその後、首都ンジャメナと対峙するために南へ向かう戦車、火砲類、装甲車の集結地点として利用された。 12月6日に始まった首都への攻撃は、ソ連製T-54、T-55戦車を先頭に、報道によるとソビエト連邦・東ドイツの顧問が取り仕切り、12月16日には首都が陥落するに至った。リビア軍は、正規部隊、民兵組織パン・アフリカ・イスラム軍団(英語版)合わせて7000-9000人の兵士、60両の戦車、加えて装甲車群が、リビア南部のリビア・チャド国境から1100kmに及ぶ砂漠を横断、輸送した(一部は空輸、戦車運搬車による輸送や自走を含む)。なお、リビア・チャド国境自体が、地中海沿岸のリビアの主要基地から1000-1100kmの距離があった。リビア・サハラなどの専門家でBBCアラビア語サービス主任政治評論家・アナリストであったジョン・ライトは、「このリビアの介入は、その優れた兵站能力を実証して見せ、カダフィに初の軍事的勝利と十分な政治的成果をもたらした」と述べている。 亡命を余儀なくされ、また配下の軍もスーダン・ダルフール地方の辺境地域に幽閉される状況となったが、ハブレは、チャドの実権を掌握したグクーニ及びリビアへの反抗心を保持していた。12月31日、セネガルのダカールにおいてハブレは「ゲリラとして、暫定国民連合政府(GUNT)との戦いを再開する」と発表した。
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