リビアの撤退
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1981年1月6日、リビアのトリポリで、カダフィとグクーニにより「リビアとチャドが『二国間の完全な統一の達成を目指して努力する』と決定した」との共同声明が発せられた。合併計画はアフリカにおいて強い拒絶反応を引き起こした。またフランスは直ちに強い非難を表明し、1月11日には友好的なアフリカ諸国に防衛拠点の増強を申し出、1月15日にはフランス地中海艦隊は警戒態勢に入った。リビアは「石油を禁輸する」、一方、フランスは「リビアが国境を接する他国を攻撃した場合、フランスはそれに反応する」と、互いに恫喝で応じた。また、トリポリでグクーニと共にいた暫定国民連合政府(GUNT)の閣僚も、アシルを除いて全員、この共同声明に反対であった。 グクーニがこの共同声明の内容を受け入れた背景は、カダフィからの脅し、激しい圧力、カダフィが約束した財政支援、といった要因が混在していた、とほぼ一致して考えられている。グクーニのトリポリ訪問の直前、グクーニは2人の指揮官を事前協議のためリビアに派遣していた。グクーニはトリポリ訪問時にカダフィから、その2人は「リビアの反体制派」に暗殺されたと聞かされ、また、リビアの支持や自身の権力を失いたくなければ、合併計画を受け入れるべきだと諭された。 共同声明に対する強い逆風により、「union」とは両国民の「連合」のことであり両国家の「合併」の意ではないと、カダフィとグクーニは共同宣言を矮小化を行うこととなった。しかし、ダメージを抑えることはできず、グクーニの愛国主義者・立派な政治家・指導者としての信望はひどく低下することとなった。 国際的な圧力の高まりに対して、グクーニは「チャド政府の要請に基づいて、リビア軍はチャドに駐留している。国際的な仲裁役は、チャドにおける合法政府が為した決定を受け入れるべきだ」と述べた。1981年5月開催の会議においては、グクーニはやや軟化し「リビアの撤退は優先事項ではないが、アフリカ統一機構(OAU)の決定は受け入れる」と表明した。エジプトとスーダンが支援し、アメリカ中央情報局がエジプトを通じて資金提供を行っている、ハブレ率いる北部軍(FAN)に対処する必要から、グクーニはその当時、リビアの軍事支援を放棄することが出来なかった。 グクーニとカダフィの関係は悪化し始めた。リビア軍はチャド北部及び中央部の各地に駐留し、兵士数は1981年の1-2月までに約14000人に達した。駐留リビア軍は、アシル勢力と他勢力との紛争(4月下旬のグクーニ率いる人民軍(FAP)との衝突を含む)においてアシル勢力を支援し、暫定国民連合政府(GUNT)に著しい迷惑を掛けることとなった。チャド住民をリビア化する試みもあり、「リビアにとっての『統合』とは、アラブ化(英語版)と、リビアの政治文化(特に「緑の書」)の押し付けを意味する」と多くの者が結論付けた。 1981年10月にカダフィ配下の民兵組織・イスラム軍団とグクーニ配下軍との戦闘が行われ、アシルが暫定国民連合政府(GUNT)の指導者になるためにクーデターを計画しているとの噂が立つなかで、10月29日、グクーニは、首都はじめチャド領土からのリビア軍の完全かつ明確な撤退を12月31日を実施期限として要請した。リビア軍撤退後は、アフリカ統一機構(OAU)のインター・アフリカ軍(ドイツ語版)(IAF)が派遣される予定であった。カダフィはこれを受け入れ、11月16日までに全てのリビア軍はチャドを離れ、アオゾウ地帯へ移動・再配置するとことなった。 リビアの迅速な撤退は多くの者を驚かせた。その理由の一つは、カダフィが「1982年のアフリカ統一機構(OAU)年次総会のホスト国、議長国になりたい」と考えていたことであった。もう一つの理由は、チャドにおけるリビアの困難な状況、つまりは、チャド駐留に対してチャド国民及び国際的なある程度の容認が無ければ、アメリカが支援するエジプト・スーダンとの戦争の原因となる明確な危険性があり、その危険を冒すことは困難であったことである。カダフィは、チャドに関して設定した目標を諦めたわけではなかったが、グクーニが信頼できない人物であると明確になったので、グクーニに替わるチャドの新しい指導者を見つけなければならなかった。
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