ラストシリーズ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 04:30 UTC 版)
最終回まで全4シリーズ放送。 雷波少年系ラストチャンス 「ラストシリーズ」の第1弾で、デビュー3年目のSomething ELse(以下「サムエル」)が挑戦。3人が選ばれた理由は「メロディーラインが綺麗だと思い、このまま消えるのが惜しいと思ったから」だと前記の土屋が語っていたことがある。3カ月の合宿生活の中で運命の1曲を作り、その曲がオリコン初登場20位以内に入らなければ即解散および音楽業界から足を洗うというルールだった。 1998年12月23日に運命のCD「ラストチャンス」が発売され、20万5340枚を売り上げ1999年1月6日付のオリコン初登場2位を記録。これによりユニットの存続が決定した。その後「ラストチャンス」は初登場の翌週にはオリコン1位を記録し、最終的にはミリオンセラーとなり第50回NHK紅白歌合戦にも出場。サムエルも2006年10月22日の解散まで、ユニット活動を継続した。 雷波少年系ラストツアー 「ラストシリーズ」の第2弾で、デビュー5年目のBluem of Youth(以下「ブルーム」)が挑戦。半年でシベリア鉄道でロシアを横断し、その間に運命の1曲を作り日本武道館で公演を行うことが目標とされ、10000人(武道館の客席の約7割)の観客動員がなければ解散し、音楽業界から足を洗うというルールだった。最終的に行われた公演では平日の公演にも関わらず目標を上回り、1回目の公演では11427人が武道館に入場した。本来は1回だけの予定であった公演も、3万人近くの人が会場に集まったため急遽2回目の追加公演が行われるという事態となり、2回目の公演でも1万人以上の観客を動員。 武道館公演で披露された運命の1曲「ラストツアー」は企画終了後CD化され、サムエルの運命の1曲「ラストチャンス」と同じオリコン初登場2位を記録した。 旅の途中で数曲作るも、街の人々に視聴させたところでは反応がなかったことに危機感を抱いたチューヤンが観客にピロシキなどを土産をつける作戦に出て、それを2人に報告すると「これでは自分たちの曲を聴きに行くというより土産目当てになる」と激怒したことからそれをなしとし、依頼した会社に頭を下げていたこともある(ピロシキは後に楽屋でいくつか食していた)。チューヤンはその後、お詫びも込めてか二人の似顔絵を作成し、それをポスターに使用。後に本人らに見せたところ、出来栄えを非常に評価していた。 ブルームはその後、2003年から2008年までの活動休止(2005年にデビュー10周年記念ライブでの限定復帰を除く)を経て、現在は活動を再開している。 「ラストチャンス」「ラストツアー」でそれぞれ目標を達成したサムエル、ブルームともに、本来の「運命の1曲」とは別に候補曲が存在し、企画終了後それぞれ日本テレビの番組タイアップ曲としてシングルカットされた。サムエル運命の1曲別候補「さよならじゃない」…1999年度『劇空間プロ野球』イメージソング ブルーム運命の1曲別候補「Stairway」…2000年1 - 3月分『知ってるつもり?!』エンディングテーマ 不良芸人更生施設 雷波少年院/不良芸人更生施設 雷波少年院 運命のラストコント ラストシリーズとしては唯一となる、歌作り以外の企画。 『進ぬ!電波少年』の企画「電波少年的ハルマゲドン」を途中で投げ出したあと、本番組プロデュースの娯楽企画「後ろ楽しいガーデン」でカップルを作る仕事を放り出してナンパをしていたポプラ並木が懲役10年の刑で収容。毎週1回行われるコントで得たカンパ金から100円を支払えば1日刑期が短縮されるというルール。北海道網走市からスタートしたが、番組の企画が周知されると善意による大量のカンパを防ぐため、何度か移動を繰り返し、秘境である徳島県西祖谷山村でいったん落ち着いた。 しかし、途中で応援に来たラサール石井やどーよにカンパ金を根こそぎ持って行かれたことも重なったせいか次第に不満を募らせ、あとわずかという刑期で脱走を計り、刑期が20年に延長される。このこともあって一時期韓国へも舞台を移したが、早期の釈放を望んだ2人のためにラストコントを決行し、「ラストシリーズ」第3弾として「雷波少年院 運命のラストコント」が開始。ラストコントで失敗し、カンパが刑期分集まらないと懲役が200年になる予定だったが、見事達成し釈放された。なお、肉親はコントを会場で見ることはできても、大量のカンパを防ぐ理由から一円のカンパも許されなかった。 企画達成こそしたものの、ポプラ並木はその後、顔を合わせた途端に喧嘩し始めるほどの不仲に陥った挙句、2002年の『雷電SP』放送終了後に及川が解散を発表。その後及川は須藤祐と新コンビ「魚でF」を結成し、「電波少年に毛が生えた 最後の聖戦」の企画「電波少年的日本ポッチャリ党」に出演した。その後の2007年4月に解散し、以後は作家として活動している(詳細は魚でFのリンク先を参照)。 一方、青木は解散と同時に所属事務所だったホリプロを脱退し、インディーズの事務所に移籍して芸人コンビを結成したというが、現在の消息は不明。 雷波少年ファイナル企画ラストソング タイトル通り、本番組の最後の企画として放送された。日韓共催で行われた2002 FIFAワールドカップに因み、鳴海一幸(熊本県出身のアマチュアバンドメンバー)、パク・ジョンアー(韓国人女性グループJEWELRYのリーダー)、秦昌寛(チン・チャンガン、在日韓国人3世)の3人がバンド「Asian H」を結成、シンガポールからソウルへ向かう過程で曲を作り、ソウルでのライブで披露する企画。最終回となった『雷電為右衛門千秋楽』ではSomething ELse、Bluem of Youthとともにライブを行い、これを最後にバンドは解散した。この企画で作られた「LAST SONG」は日韓ワールドカップ公式アルバムに収録された。またこの企画は韓国SBSでも同時放送された。音源は現在ソニーミュージックが版権を有し、Moraで配信されている。
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