トルコとの関わり
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明治23年(1890年)、訪日から帰国途上のオスマン帝国軍艦エルトゥールル号の遭難事件が日本中に大きな衝撃を呼ぶと、寅次郎は民間から義捐金を集めて犠牲者の遺族に寄付することを思い立った。彼は親交のあった日本新聞社の陸羯南に働きかけて募金運動を起こした。日本中で演説会をして回って、2年をかけて5000円(現在の価値で1億円相当とされる)の寄付を集めた。当初はトルコへ送金するつもりであったが、その方法について外務大臣の青木周蔵と面談したところ、持参を勧められたという。 明治25年(1892年)4月、寅次郎は義捐金を携えてオスマン帝国の首都イスタンブールに到着し、早速オスマン帝国外相を訪ねて義捐金を届けた。これにより彼が遠い日本から民間人でありながら義捐金を持って自らやって来たことが知れわたると、彼はイスタンブールの官民から熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世に拝謁する機会にすら恵まれた。この時に彼が皇帝に献上した生家の中村家伝来の甲冑や大刀は、現在もトプカプ宮殿博物館に保存、展示されている。 1894年(明治27年)6月30日付けで寅次郎が第百銀行の池田健三に宛てた書簡によると、滞在したのは1892年(明治25年)4月から数か月間で、その際、オスマン商工会議所内に自ら持参した日本商品を商売の見本として陳列し、日本品販売所を開設できるよう準備をして帰国。再来訪した1893年から1894年にかけて販売所を開き、その後、大阪の中村健次郎(商人・中村久兵衛弟)の出資を得て「中村商店」として開店したと推測される。 寅次郎はアブデュルハミト2世から士官学校での日本語の教育や、東洋の美術品の整理を依頼され、イスタンブールにしばらく滞在していた。そのうちにトルコに愛着を覚え、イスタンブールに留まって事業を起こすことを決意した、と自伝では述べている。明治29年(1896年)、一時帰国を経て再びイスタンブールにやって来た寅次郎は、イスタンブールの「中村商店」の現地支配人となり、日本との間での貿易事業を始め、以後、日本とトルコの間を何度か行き来しながら、イスタンブールに滞在した。この頃の中村商店の実態、寅次郎の活動については不明な点が極めて多い。寅次郎はイスタンブールに継続的に留まることはなく、周辺諸国の探訪や日本への一時帰還など活発に活動していたことが確認されているが、その詳細は必ずしも詳らかではない。1899年に一時帰国した時に大阪中村商店の経営者である中村久兵衛の娘・中村たみと結婚し、中村一族と血縁となる。子供も儲けたが、妻子は大阪に置いたままで、日本に落ち着くことはほとんどなかった。 寅次郎がイスタンブールに滞在していた当時、日本とオスマン帝国の間では治外法権の問題から国交交渉が進展せず、正式の国交が持たれなかった。こうした事情もあり、彼はこの町でほとんど唯一の日本人長期滞在者であった。そこで、イスタンブールを訪問する日本人たちは官民、公用私用を問わずみな中村商店を訪問し、寅次郎に様々な便宜を図ってもらっていたという。寅次郎の接遇を受けた人物に、徳富蘇峰、深井英五、田健治郎、松永武吉、朝比奈知泉、望月小太郎、池辺吉太郎、徳川頼倫、鎌田栄吉、寺内正毅、橋本圭三郎、中村直吉、伊東忠太などがいる。 彼のイスタンブール滞在中に日露戦争が起こった。「ロシア黒海艦隊所属の艦艇3隻が商船に偽装してボスポラス海峡を通過した」との情報が、イスタンブールから在ウィーン日本大使館を経て日本に送られ、重要情報として高い評価を受けたことが知られている。寅次郎が晩年語ったところによれば、この監視と打電を行ったのは寅次郎自身であったという。ただし近年の研究により、寅次郎や中村商店の情報収集は不充分で、戦況を左右するものではなかったことが明らかとなっている。 このように彼はイスタンブールにおいて日土両国の政府関係者と繋がりを持ち、トルコにおける日本の便益を図った。この時期の寅次郎はいわば日本の「民間大使」であったと言われることもある。 トルコ滞在中の寅次郎は、アブデュルハミト2世からトルコ人たちの呼びやすいムスリム(イスラム教徒)名をつけられ、トルコ人の友人たちからはムスリム名「アブデュルハリル山田パシャ」と呼ばれていた(「パシャ」はオスマン帝国で高官、高級軍人に与えられる称号である)。彼が正式にイスラム教に改宗する手続きを行ったかどうかは定かではないが、後に寅次郎は「当時は心情的にはイスラム教徒に近かった」と語っており、そうしたことから彼は日本人ムスリムの草分けの一人に数えられることもある。 大正3年(1914年)、第一次世界大戦が勃発するとドイツなど中央同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国の対外情勢は緊迫したため、寅次郎はイスタンブールを最終的に退去、帰国したとされる。しかし、イスタンブールを訪れた日本人が残した様々な記録を照査した近年の研究によると、寅次郎がイスタンブールを離れたのは1906年頃とされる。 宗有の孫娘である和多利月子(ワタリウム美術館経営陣)の調査によると、第一次世界大戦前、寅次郎は皇帝のために日本から工芸品や大工道具などを取り寄せたり、生きた鳥とその世話をする鳥飼の渡航を手配したりしており、オスマン帝国内を自由に行き来できる証明書を与えられていた。またトルコで世話した日本人のうち、伊東忠太とは特にこまめに葉書で近況を知らせ合っていた。日本へ戻り、大阪に居を定めたのは1905年であるという。
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