トルコとの関わりとは? わかりやすく解説

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トルコとの関わり

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 00:16 UTC 版)

山田宗有」の記事における「トルコとの関わり」の解説

明治23年1890年)、訪日から帰国途上オスマン帝国軍エルトゥールル号遭難事件日本中に大きな衝撃を呼ぶと、寅次郎民間から義捐金集めて犠牲者遺族寄付することを思い立った。彼は親交のあった日本新聞社陸羯南働きかけ募金運動起こした日本中で演説会をして回って2年をかけて5000円現在の価値1億円相とされる)の寄付集めた当初トルコへ送金するつもりであったが、その方法について外務大臣青木周蔵面談したところ、持参勧められたという。 明治25年1892年4月寅次郎義捐金携えてオスマン帝国首都イスタンブール到着し、早速オスマン帝国外相訪ねて義捐金届けた。これにより彼が遠い日本から民間人ありながら義捐金持って自らやって来たことが知れわたると、彼はイスタンブール官民から熱烈な歓迎を受け、皇帝アブデュルハミト2世拝謁する機会にすら恵まれた。この時に彼が皇帝献上した生家中村家伝来甲冑大刀は、現在もトプカプ宮殿博物館保存展示されている。 1894年明治27年6月30日付け寅次郎第百銀行池田健三宛てた書簡によると、滞在したのは1892年明治25年4月から数か月間で、その際オスマン商工会議所内に自ら持参した日本商品商売見本として陳列し日本販売所開設できるよう準備をして帰国再来訪した1893年から1894年にかけて販売所開きその後大阪中村健次郎(商人中村久兵衛弟)の出資得て中村商店」として開店した推測される寅次郎アブデュルハミト2世から士官学校での日本語教育や、東洋美術品整理依頼されイスタンブールにしばらく滞在していた。そのうちトルコ愛着覚えイスタンブールに留まって事業起こすことを決意した、と自伝では述べている。明治29年1896年)、一時帰国経て再びイスタンブールにやって来た寅次郎は、イスタンブールの「中村商店」の現地支配人となり、日本との間での貿易事業始め以後日本トルコの間を何度か行来しながら、イスタンブール滞在したこの頃中村商店実態寅次郎活動について不明な点が極めて多い。寅次郎イスタンブール継続的に留まることはなく、周辺諸国探訪日本への一時帰還など活発に活動していたことが確認されているが、その詳細は必ずしも詳らかではない。1899年一時帰国した時に大阪中村商店経営者である中村久兵衛の娘・中村たみと結婚し中村一族と血縁となる。子供儲けたが、妻子大阪置いたままで、日本落ち着くことはほとんどなかった。 寅次郎イスタンブール滞在していた当時日本オスマン帝国の間では治外法権問題から国交交渉進展せず、正式の国交持たれなかった。こうした事情もあり、彼はこの町でほとんど唯一の日本人長期滞在であった。そこで、イスタンブール訪問する日本人たちは官民公用私用問わずみな中村商店訪問し寅次郎様々な便宜図ってもらっていたという。寅次郎接遇受けた人物に、徳富蘇峰深井英五田健治郎松永武吉朝比奈知泉望月小太郎池辺吉太郎徳川頼倫鎌田栄吉寺内正毅橋本圭三郎中村直吉伊東忠太などがいる。 彼のイスタンブール滞在中に日露戦争起こった。「ロシア黒海艦隊所属艦艇3隻が商船偽装してボスポラス海峡通過した」との情報が、イスタンブールから在ウィーン日本大使館経て日本送られ、重要情報として高い評価受けたことが知られている。寅次郎晩年語ったところによれば、この監視打電行ったのは寅次郎自身であったという。ただし近年の研究により、寅次郎中村商店情報収集不充分で、戦況左右するものではなかったことが明らかとなっている。 このように彼はイスタンブールにおいて日土両国政府関係者繋がり持ちトルコにおける日本便益図った。この時期寅次郎はいわば日本の「民間大使であったと言われることもある。 トルコ滞在中の寅次郎は、アブデュルハミト2世からトルコ人たちの呼びやすいムスリムイスラム教徒)名をつけられトルコ人友人たちからはムスリム名「アブデュルハリル山田パシャ」と呼ばれていた(「パシャ」はオスマン帝国高官、高級軍人に与えられる称号である)。彼が正式にイスラム教改宗する手続き行ったかどうか定かではないが、後に寅次郎は「当時心情的にイスラム教徒近かった」と語っており、そうしたことから彼は日本人ムスリム草分け一人数えられることもある。 大正3年1914年)、第一次世界大戦勃発するドイツなど中央同盟国側に引き入れられつつあったオスマン帝国対外情勢緊迫したため、寅次郎イスタンブール最終的に退去帰国したとされる。しかし、イスタンブール訪れた日本人残した様々な記録照査した近年の研究によると、寅次郎イスタンブール離れたのは1906年とされる。 宗有の孫娘である和多月子(ワタリウム美術館経営陣)の調査によると、第一次世界大戦前寅次郎皇帝のために日本から工芸品大工道具などを取り寄せたり生きたとその世話をする鳥飼渡航手配したりしており、オスマン帝国内を自由に行き来できる証明書与えられていた。またトルコ世話した日本人のうち、伊東忠太とは特にこまめに葉書近況知らせ合っていた。日本戻り大阪に居を定めたのは1905年であるという。

※この「トルコとの関わり」の解説は、「山田宗有」の解説の一部です。
「トルコとの関わり」を含む「山田宗有」の記事については、「山田宗有」の概要を参照ください。

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